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第一期(1881~1920年代)

創業~SEIKOブランドの誕生まで(世界を追いかける)

1. はじめに

欧米の時計技術は、15世紀以降の大航海時代、各国が国の威信と多額な懸賞金をかけて、安全な船舶の航行のためには欠かせない極めて高精度な時計「マリンクロノメーター」の開発に取り組み、大きな進化を遂げました。また18世紀半ば産業革命期の蒸気機関の発明が鉄道産業を興し、その安全な運行のために小型で精度の高い「鉄道時計」の開発を促しました。
しかし当時の日本は戦乱期であり、のちの鎖国政策のため外航は禁じられ、時計技術は世界から大きく取り残されていました。和時計と呼ばれる不定時法に対応した時計を製作していましたが、その技術的工夫や装飾性は高く評価されるも、高精度・小型化などの近代的な技術の面では大きく立ち遅れていました。

2. 明治初期の国産時計産業について

日本は1872(明治5)年、改暦(旧暦から新暦へ)と併せ、時刻制度を不定時法から定時法に変更し、国産の時計産業は大きな転換期を迎えます。300年近く作り続けてきた不定時法に対応した和時計は「無用の長物」になり、開国以降の旺盛な時計需要を満たすためには、海外からの輸入に頼らざるを得ませんでした。
国産時計産業が芽生えるのは1877(明治10)年頃で、当時は東京・名古屋・大阪の少数のメーカーが欧米の掛時計や懐中時計をモデルに、小規模な製造を始めた時期でした。

3. 服部時計店の創業

そのような中、1881(明治14)年、服部金太郎は輸入時計の販売と時計修理を目的に服部時計店(現セイコーホールディングス)を創業します。

服部金太郎物語

4. 精工舎の創業、掛時計の製造

創業当初の精工舎(柳島町)
1897年頃の精工舎

服部時計店創業から11年後の1892(明治25)年に現在の東京都墨田区に精工舎を設立し、掛時計の製造を開始します。掛時計から生産を始めたのは、懐中時計に比べて製造が容易であったこと、既に日本で他社が掛時計の工場生産を始めていて、輸入時計より安価に製造できることが実証されていたためです。
精工舎は時計の機械部分の加工・組立だけでなく、文字板や針・木製ケースなど外装部品の製造も手掛け、外注していた部門も専属の協力工場にするなど、自社内で全てを一貫して製造する方法(垂直統合方式)に切り替えていきました。
この方法は他の国産掛時計メーカーが行っていた水平分業方式と比べて、高品質の製品作りに格段に有利で、開発スピードが速まることから、精工舎は僅か6〜7年のうちに日本一の掛時計量産工場になりました。

5. 懐中時計「タイムキーパー」、目覚時計

タイムキーパーと目覚置時計
(左)タイムキーパーと(右)目覚置時計

精工舎創業3年後の1895(明治28)年に懐中時計、7年後の1899(明治32)年に目覚置時計を発売するなど、輸入時計一色だった日本市場での国産時計の地歩を築いていきます。
特に、目覚置時計のケースにはニッケルメッキを施し、錆びにくくしたことで評判をよび、日本や中国(上海)市場を席巻していたドイツ製の目覚置時計(鉄製ケース)を駆逐することになりました。
そして、創業以来、僅か10年を満たずに、掛・置・懐中時計の3部門をもつ我が国唯一の総合時計工場となりました。

6. 生産設備の革新、最新鋭の生産設備

ピニオン自動旋盤
ピニオン自動旋盤

1899(明治32)年、服部金太郎は初めて欧米の時計工場視察のため渡航します。最新鋭の動力用蒸気機関や工作機械等を多数購入したことにより、精工舎の工場設備は一新され、大量生産体制を整えます。
1904(明治37)年の日露戦争により、強制的に軍需品への転換命令が出され、精工舎は、精密さが要求される砲弾の信管等の製造に従事するも、軍から機械加工に関するノウハウが移転され、大量生産方式など精工舎の枝術の進歩が促進されました。
さらに、1908(明治41)年には、自社開発した「ピニオン自動旋盤」により、懐中時計製造のネックであったカナ(ピニオン)加工の生産性を飛躍的に高めることに成功します。

7. 大衆向け懐中時計「エンパイヤ」

エンパイヤ
エンパイヤ

1909(明治42)年に開発した大衆向け懐中時計「エンパイヤ」は、ピニオン自動旋盤の活躍で大量生産が可能になり、大ヒットします。当時の日本市場はスイス製と「エンパイヤ」が市場を2分したといわれ、中国輸出が本格化します。エンパイヤは1934年までの約26年間生産された明治・大正・昭和初期の花形商品でした。
精工舎創業から19年後の1911(明治44)年には、精工舎は日本生産の60%を占め、日本の工業界においても有力な地位を得ることになります。

8. 国産初の腕時計「ローレル」の開発

ローレル
ローレル

そして、セイコーは1913(大正2)年、国産初の腕時計「ローレル」を発売します。
世界で腕時計の量産が始まるのは1910年頃であることを考えると、1913年のローレルの商品化は相当に挑戦的でした。当時の技術レベルや生産設備からみて“12型”(φ26.65mm)という小型化は極めてハードルが高かったが、この挑戦によって設計技術・微細加工技術や工作機械開発が一段と進んでいくこととなります。
翌年の1914(大正3)年に勃発した第一次世界大戦は、腕時計の世界的な普及を促す大きな契機となります。奇しくも商品化のタイミングは絶妙でした。

9. 関東大震災とSEIKOブランドの誕生

熔けた修理時計
熔けた修理時計

セイコーは創業以来の最大の危機に陥ります。1923(大正12)年9月の関東大震災により、工場や営業所などが全焼し、生産・販売は中止せざるを得ませんでした。しかし懸命の復興努力により、翌10月に営業を開始、精工舎は翌年3月からは生産を再開しました。
その後1928(昭和3)年から5年かけて近代的な工場を次々と竣工、同時に新鋭機械を導入して生産設備を一新し、その後の時計生産が飛躍する基盤が固まることとなります。

また、翌年1924(大正13)年、震災後の新たなスタートの年に、「精巧な時計を作る」という精工舎創業時の原点に立ち返るという想いを込めて、新しいブランドSEIKOが誕生しました。

鉄道時計 セイコーシャ
鉄道時計 セイコーシャ

そして、1929(昭和4)年、懐中時計「セイコーシャ」が「鉄道時計」として認定されます。1872(明治5)年に開業した日本の鉄道は、長らく欧米の鉄道時計を採用してきましたが、正確性と信頼性が強く求められる鉄道時計に認定されたことは、セイコーにとって、大きな自信になり、ようやく欧米時計メーカーの後ろ姿が見えてきた時期でもありました。

第二次大戦による停滞・縮小

1937(昭和12)年、精工舎は腕時計の生産増強を図るため、腕時計部門を切り離し、新会社「第二精工舎(亀戸)」を設立します。
しかし、1937(昭和12)年の日中戦争、1939(昭和14)年の第二次世界大戦、1941(昭和16)年の太平洋戦争と戦局は急を告げ、精工舎・第二精工舎ともに本格的に兵器類の生産に移行せざるを得ず、民間用時計の生産は年を追って減少、終戦の年の1945(昭和20)年にはほぼ生産中止したも同然でした。
第二精工舎(亀戸工場)は戦災によって壊滅状態にあり、疎開先であった桐生、富山、仙台、諏訪の工場で生産が再開されました。1949(昭和24)年の年末には諏訪を除く各工場は撤収され、亀戸工場中心に復興が図られます。(諏訪工場はのちの諏訪精工舎―現セイコーエプソンーとなる)
しかし生産は一応軌道に乗ったものの、老朽化した機械設備と粗悪な原料・資材、戦中戦後の技術の停滞などから品質面で多くの問題を抱えていました。
戦後、日本政府は「民需品の生産力の回復」を最優先課題とし、「輸出立国」を基本とした行政施策をとり、軽工業の時計産業は優先的な位置づけとなり、官・学共同の品質向上の支援が続けられたことは、再建の大きな支えとなりました。
また、1948(昭和23)年から通産省が実施した国産時計品質比較審査会(時計コンクール)がその一つで、これをきっかけに国産時計の品質が一段と向上することになります。