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田中久重(1799-1881)

田中久重とは?

田中久重
田中久重

久留米出身、江戸時代後期から明治にかけての発明家で、日本で最初の民間機械工場、芝浦製作所(東芝の重電部門の前身)の創業者でもあります。青年時代からの数々の精巧なからくり人形や、和時計の最高傑作「万年自鳴鐘(まんねんじめいしょう)」を始めとする時計などの製作によって「からくり儀右衛門」と呼ばれていました。その後は、蒸気機関や大砲の研究開発・製造に取り組む一方、生活に便利な様々な機械を発明するなど、日本の近代技術の発展に大いに貢献します。まさに「技術大国日本」の礎をつくった稀代の天才機械技術者であり、「東洋のエジソン」とも呼ばれました。

“からくり”で生きる道を決意し、からくり興行師に

弓曳童子
弓曳童子

べっこう細工師の長男として生まれた田中久重は、既に9歳にしてからくり細工をほどこした「開かずの硯箱」を作って周囲を驚かします。1796年に出版された細川半蔵の書いた和時計やからくり人形・玩具の機械技術書「機巧図彙(からくりずい)」を読み漁っては創意工夫に情熱を燃やし、父に「私は発明工夫をもって天下に名を上げたいと思います。家業は弟に継がせて下さい。」と訴えて、"からくり"とともに生きる決意をします。
単に模倣のみでは満足せず、創意工夫で水圧、重力や空気圧(ポンプ)など様々な力を利用した"からくり人形"を製作します。中でも「弓曳童子」「文字書き人形」「童子盃台」などは傑作で、からくり興行師として大阪・京都・江戸などを行脚しました。

時計・天文学への興味から「須弥山儀」の製作へ

須弥山儀
須弥山儀

30代半ばで大阪に移り住み、携帯用の「懐中燭台」や、いつまでも消えない「無尽灯」を製作しますが、その後南蛮貿易によってもたらされた西洋時計に興味を示し、西洋の天文暦学・数理学を学びます。
そこで得た天文家としての学識と技術者の腕を生かして、1850年に当時の時計の概念を根底から覆したといわれる和時計「須弥山儀(しゅみせんぎ)」(※1)を完成させます。これは、天動説にそった仏教の宇宙観をひとつの時計の中で見事に表現した名品で、世界は須弥山を中心にその周りを月と太陽が回っていることを示した天体時計です。これは、西洋の地動説が日本に伝わってきたときに、宗教的危機を感じて仏教的宇宙観を啓蒙するためにつくったと言われています。

  • ※1 現在、そのうちの一点は、熊本市「時計の大橋」が所有し、セイコーミュージアムに寄託され常設展示されています。

卓越した技術力を知らしめた万年時計「万年自鳴鐘」

虫歯車と虫歯車図面
虫歯車と虫歯車図面

翌年1851年には、久重の生来の技術である彫金や象眼・七宝を含む金属細工と、からくりの才を素地として、高度の天文暦学と西洋の時計技術の精髄を取り込んだ最高傑作「万年自鳴鐘」を完成させます。これは、ほとんど彼の手作りによる1000点以上の部品で構成され、一度巻けば一年動き続けるという驚異の複雑からくり時計です。
西洋時計と和時計の他に、曜日や二十四節気、十干十二支(旧暦の日付)、月齢、天象儀(京都から見た1年間の太陽と月の動き)、打鐘の機能があり、これらすべてが底部のぜんまい動力によって連動して動作します。
特に和時計には、季節ごとの昼夜の長さの変化に対応して一刻(いっとき)の長さが変わる不定時法に、文字板のインデックスの位置・間隔を自動で変化させることで対応する画期的な機構が備わっていました。これは虫歯車と名づけられた独創的な歯車に、互い違いに2枚の片歯車を組み合わせて歯車が回転往復運動をすることで成り立っています。

実は、万年自鳴鐘の西洋時計にはスイス製の懐中時計の脱進機部分をそのまま流用することで時計の精度を確保しており、その脱進機の動きで、この和時計の割駒式文字板と針に連動させていたのです。
「進んだ西洋技術を受け入れるだけでなく、それに日本の生活文化を融合させ、社会に役立つものとする。」という久重の想いを、よく表しているつくりでした。

万年時計
万年時計

この万年時計は、久重の死後まもなく故障して長い間動いていませんでしたが、2004年の「万年時計復元複製プロジェクト」によって、分解分析・復元がなされ、久重が独自に開発した複雑機構や、工作機械を使わずに歯車やぜんまいもすべて手作りをした形跡が確認されました。(※2)
万年時計を製作した後も、目覚し機能付きの枕時計、時間ごとに太鼓を打ちニワトリが時を報じる太鼓時計など、飽くなき探求心で独創的な時計の製造を続けます。

  • ※2 この復元プロジェクトは、国立科学博物館と東芝によって行われましたが、時計部担当は機械時計技術の第一人者として、元精工舎の土屋榮夫さんが選ばれ、オリジナルの解体・復元、レプリカの複製をするなかで、膨大な複製品の図面製作を担当されました。復元されたレプリカは、2005年の「愛・地球博」で展示され、その後は、東芝未来科学館に展示されています。オリジナルは2006年重要文化財に指定され、現在は国立科学博物館に常設展示されています。

晩年の久重

1853年ペリーの黒船来航以降は、富国強兵の国防技術に関心を抱き、蒸気船や蒸気機関車の模型の製造、反射炉の設計やアームストロング砲などの開発製造に着手しました。
明治という新たな時代の幕開けを迎えると、「人々に役だってこそ技術」といっては、日本初の製氷機械や自転車、人力車、精米機など生活に密着した製品の開発に没頭します。
その後、73歳にして、通信事業で日本の近代化に貢献できる人物として政府から白羽の矢が立ち、首都東京に出てきて、高品質な通信機の開発にたちまち成功します。
1875年には、「万般の機械考案の依頼に応ず」という看板を掲げた新しい工場を構えました。これが今日の東芝の創業とされています。そこで、電話機を試作したり、日本全国に時報を伝える「報時機」などを生み出しました。

万年時計
万年時計

永遠の発明少年、「東洋のエジソン」こと田中久重は、1881年その生涯を閉じますが、幕末から明治に至る動乱時代にあって、常に時代の先端を見据え、人々を楽しませる発明を追い続けた人生でした。特に、万年時計や須弥山儀など、日本人が江戸時代にこれだけ独創的で進んだ技術を盛り込んだ時計を製作していた事実が、ある意味今日の日本の時計産業の隆盛に繋がるDNAの礎ともいえ、大変興味深いものがあります。

参考文献:東芝未来科学館 HP田中久重ものがたり
時計のはなし 平井澄夫