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暦の変遷

暦の誕生

シリウス暦
シリウス暦

暦は、原始的な狩猟文明から農耕文明に移る過程で、季節による気候の変動に対して、食物を計画的に生産し収穫・貯蔵するという知恵、すなわち、人類が生活する上での必要性の中から生まれてきました。
エジプトでは紀元前3000年頃、毎年初夏の雨季の頃にナイル川が氾濫して大洪水をもたらす事を、その時期の前に決まって東の空に明るいシリウスが輝き始めることから察して、1年の周期をシリウスが見え出す夏至の日を始まりとして、そこからまた見え出す前日までを1年365日とする、太陽暦の起源となる「シリウス歴(エジプト歴)」を作ったようです。この1年は、月の周期を基にした30日による12か月と、年の終わりの5日間の安息日で成り立っていました。この暦をもとに、1年を大きく4か月ごとに分けて、洪水・種まき・収穫時期と分けて農作業を管理していたのです。

暦の改定

ユリウス・カエサル
ユリウス・カエサル

古代ローマでは、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が紀元前46年に、エジプト歴をベースに、その暦のずれを補正するために4年に一度1日増やす閏年を設け、エジプトに始まった太陽暦がヨーロッパに広まる基となる「ユリウス歴」を作りました。
その後約1600年の間ユリウス歴が使われていましたが、ユリウス歴も128年間に1日くるうことが解ったため、西暦1582年ローマ法王グレゴリウス13世は、正確な暦でキリスト教の権威を取り戻すべく、その間に出来た13日間の誤差を修正し、現代でも世界中で広く使用されている「グレゴリオ暦」を作ります。

グレゴリウス13世
グレゴリウス13世

これは、西暦年が4で割り切れる年は閏年とするが、100で割り切れても400で割り切れない年は平年とする、というものでした。
このように暦は、民を支配する権力者・法王の象徴でした。

太陰暦

太陰暦カレンダー
太陰暦カレンダー

人類は太古より、太陽の出没にともなって繰り返される明暗を意識した生活をしてきたと同じ様に、月(太陰)の満ち欠けによる形相と明暗の変化に、大きな関心を示していました。夜間では月光を利用して、生活をしていたのです。
メソポタミア文明を築いたバビロニア人は、季節の推移が年間の太陽の高度変化の周期のみならず、月の満ち欠けの周期によっても、もたらされていることに初めて気づき、いわゆる太陰暦の基を作ったといわれています。
月が地球の周りを公転する周期は29.5日で、これを1朔望月といいますが、これだと12か月の1太陰年が354日となり、地球の公転を基にした実際の1太陽年に比べて11日も短くなってしまうために、1年365日の季節と月をもとにした月日が年ごとにずれるので、太陰暦は農耕などには適さない欠点がありました。

イスラム社会のヒジュラ暦

ちなみに多くのイスラム教社会では、現代でも、ラマダーン、ハッジなどの祭礼を行う際に、太陰暦をベースにしたヒジュラ暦(マホメット暦)を使っていますが、これは、イスラム教の預言者マホメット(ムハンマド)が、メッカからメディナへ聖遷(ヒジュラ)したユリウス歴622年をヒジュラ暦元年とした事に始まっており、このイスラム教にとっても歴史的な暦を、宗教的行事上は、未だに厳格に守っていることによります。

太陰太陽暦

バビロニア人は遅くとも紀元前2000年頃には、太陰の運行周期による1年354日の太陰暦に、太陽の運行周期による1年365日の季節変動も考慮して閏月を加えることで調整した、太陰太陽暦を使い始めたと言われています。
この暦法は、新バビロニア王国の時代に完成を見て、エジプト以外のユーラシア大陸のほとんどの地方に広まりました。これがバビロン捕囚中のユダヤ人に受け継がれて、現在のユダヤ暦に引き継がれています。
逆に現在では、ユダヤ人社会を除くと、ほとんどが太陽暦「グレゴリオ暦」であり、太陰太陽暦を用いることはなくなっています。

中国暦

中国暦
中国暦

殷代の甲骨文字が解明されて、中国では既に紀元前1500年頃には、太陰暦をもとに十干十二支で数える暦が使われていたようです。更に、今から2000年前頃には、暦と季節のずれを補正するために、二十四節気を定めました。1節月は約30日で1朔望月より長く、各節月の長さを閏月を多くすることで調整した太陰太陽暦を使い始め、中華民国が成立する1912年まで、この中国暦を使用し続けました。
中国や、ユーラシア大陸のほとんどの地方で、長く太陰太陽暦が使われ続けた背景には、月の満ち欠けや潮の干満が、大河流域での洪水による氾濫を予知するのに役立ったことや、漁民などの航海時にも重要だったことによるもので、農耕や海洋生活上必要だったのです。

日本における暦

和暦
和暦

日本では、古くは確かな暦がなく、自然現象に従っていた自然暦だったと言われており、明らかに暦が採用されたのは、中国渡来の太陰太陽暦を用いた690年からのようです。862年から800年間以上は中国の宣明暦を、その後は、1685年に初めて日本人の手によってずれを修正して作られた和暦、貞亨暦になります。その後、数度、日本人が太陰太陽暦を基に独自の暦を作りますが、明治5年に改暦となり、明治6年から西洋に合わせる形で、まずユリウス暦、その後明治31年にグレゴリオ暦を採用します。

改暦弁
改暦弁

これは、諸制度を欧米に倣ったために、暦日も合わせないと、辻褄が合わないためでしたが、実は明治6年は旧暦では閏年に当たり、西洋流を採用すると、月給を1か月多く13か月分支払う必要があり、財政逼迫に苦しんでいた新明治政府が、正月を1か月早くするという多くの市民にとっては初耳の非常手段を、何の前触れもなく採用したという、裏話がありました。
福沢諭吉が、動揺する一般市民の人心を抑えるために、太陽暦がいかに太陰太陽暦より優れているかなどを書き記した啓蒙書「改暦弁」は有名です。

改暦弁

参考文献
  • 「時計のはなし」平井澄夫 朝日新聞出版
  • 「時計」    山口隆二 岩波新書
  • 「暦のすべて」 渡邊敏夫 雄山閣