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江戸時代の暮らしと時間

不定時法の和時計で暮らしていた江戸時代の農民や庶民は、
どのように時間を管理していたのか、城下町や地方にあった時の鐘と共に探ります。

「時の鐘」で規則正しい生活を

江戸時代に於ける時刻制度には、不定時法が使われていました。不定時法とは、一日を夜明けと日暮れを基準にして昼と夜に分けてそれぞれ6等分し、その長さを一刻(いっとき)と呼んでいました。一日のうちでも昼と夜の一刻の長さは異なり、しかも季節によっても変わるため、常に一刻の長さが変化した複雑な時刻制度でした。

当時の時報の中心的な手段は時を知らせる鐘(「時の鐘」)で、「時の鐘」には「城の鐘」・「寺の鐘」・「町の鐘」と複数の種類があって、昼夜を通して報知がなされていました。

錦絵歌川豊国の江戸城の時計師(セイコーミュージアム所蔵)

「城の鐘」は、城内の櫓時計などの和時計を利用して、決まった時刻に太鼓や鐘で城に従事する役人に政務時間を知らせていた鐘です。
「寺の鐘(梵鐘)」は、香盤時計やその他の和時計を用いて仏事や勤行のために寺院で鳴らしていた鐘で、最初一日に3回鐘を撞いていました。(明け六つ・昼九つ(正午)・暮れ六つ)。
江戸では江戸城を囲む9ヶ所のお寺や町中、地方では京都・大坂・長崎などの主な城下町にあって、最初は幕府管轄の時報制度を取っていましたが、間もなく市民のための鐘となり、一刻に一回の報知がされておりました。
この時報システムが時代のニーズに伴い、市民が規則正しい生活するために、全国に拡がって行った事は、その時代の画期的な出来事であったと思われます。

江戸の町の9か所の鐘の連動

江戸の時の鐘の配置

特に都があった江戸の町では、めざましい発展に伴い、武家・寺社・町方に共通の時刻制度を報じる手段が求められるようになっていったのです。幕府管轄の下、最初に設置されたのは本石町(現在は日本橋小伝馬町)の鐘で、江戸城を囲む9か所(①~⑨)に設置されました。
時代によって設置場所と個数には変化がありますが、最初の9ヶ所は、①本石町②上野寛永寺③市ヶ谷八幡④赤坂田町成瀬寺⑤芝増上寺⑥目白不動尊⑦浅草寺⑧本所横堀⑨四谷天龍寺で、この順番で前の鐘の音を聞いて順序よく鐘を鳴らしていたのです。

一番古い本石町の鐘
(中央区京橋図書館より)
増上寺の時の鐘
浅草寺の時の鐘

江戸では「捨て鐘」と呼ばれる撞き方があり、時刻を告げる時打ちの鐘を撞く前に、先ず注意をひくために三度撞き鳴らしていました。これは、一つ前の順番のお寺の「捨て鐘」を聞いたら、遅速なく次のお寺で鐘が撞けるようにするための知恵でした。江戸の「時の鐘」は、前の寺の鐘の音が必ず聞き取れるような位置関係に有ったようで、誤って遅速した場合の罰則はかなり厳しいものでありました。

一番古いと言われる本石町の鐘は、将軍秀忠(1605~1623年)の時に江戸城の西の丸で撞いていた「城の鐘」を利用したものであったと言われております。これが後に日本橋に鐘楼堂を作った際に移されて、本石町の「町の鐘」へと転化して行ったのです。

時報システムの全国への拡大

17世紀中頃になると、全国的な規模で「時の鐘」の「捨て鐘」による連動を伴った、時報システムが拡大して行き、全国津々浦々、鐘の鳴らない所はなかったとまで言われるようになりました。このように一つの国で、これだけの時報専用設備を網羅して、人を配置して遅速なくそれらを連動して鳴らすという時報システムは、鉄道や電信などが発達していた19世紀末の欧米諸国でも見られない画期的な事であり、現代の鉄道の運行ダイヤをはじめとする時刻に細かいとされる日本人の素地が、既に出来上がっていた一つの例では、と思われます。
時の鐘は、幕府の管轄の下、「請負人」・「鐘撞き人」という特定の人物や、各寺社がその役を担って、その費用は鐘撞料を徴収したり、もしくは托鉢で賄っていました。

江戸時代の庶民の時間感覚とは?

松尾芭蕉

「時の鐘」は、江戸に暮らす庶民の生活のリズムを刻む鐘として、必要不可欠な要素になっていた様です。「時の鐘」が江戸時代の人々の生活に密接に関連していた例がわかる川柳や俳句が残っています。

  • 松尾芭蕉
    • 「花の雲、鐘は上野か浅草か」
  • 本石町(石町)の鐘
    • 「石町は江戸を寝させたり起こしたり(「時の鐘」で江戸の庶民は生活していた)
    • 「お江戸日本橋七つ立ち」(午前四時の暗い内に旅立ちをした)

また、石町の鐘は「上野の追い出し鐘」と呼ばれ、上野の山門の木戸の開閉を鐘の合図で行っていた様です。

地方の農民や商人の時間感覚とは?

田畑を耕す農民の時間も領主が管理していた

江戸から離れた、地方都市の農民の時間感覚はどのようなものであったでしょうか?
18世紀の中頃、「和歌山県史」の資料の中に、農民が時間を記録していた日記があります。武士階級や、大地主ばかりでなく、一般農民も同じく、決められた時間によって組織的に行動していました。彼らは、自分たちの村の用水路に水を引くために、隣の村と水を引く順番と時間を取り決めて、順番に自分たちの村社会と隣の村社会とで時間管理をしながら秩序良く、農業を運営していたのです。このように、農村社会では、共同体全体の時間が生産や人々の生活を強く支配していました。

川越の「町の鐘」

一方、商人の時間感覚はどのようなものであったでしょうか?
商家の家訓に見られる、「早起きは三文の徳」・「朝寝八石の損」・「寸分惜しんで勤勉に働く」などの時間に関する言葉が、商家の基本的行動規律でした。ある商家の家訓では、「店は明け六つ時(午前6時)に開き、夜は暮れ四つ時(午後10時)に錠をおろし」で、始まりと門限を厳守させるようにしていました。商人にとっては、従業員に時間を守らせる事が経営者の大切な心得であり、勤勉に働く事が商家の基本的な行動基準でした。
大阪の町の鐘は、鐘楼の敷地に置いた香盤時計の香串に火が廻ると時刻を知らせる鈴が付いていて、時の鐘を遅速なく撞いていました。
早くから江戸に習い、町の鐘を撞いていたと言われており、「早起きと時間厳守を貴ぶ」
大阪商人の基本的行動規律を育成する為になくてはならない町の鐘でした。

共同体が支配していた時間

日本では、江戸時代を通して時間は基本的に共同体単位のものであり、主に共同体を支配していた領主層によって管理されていました。時間は共同体が、集団で行動する際に秩序良く、組織的に行うためのものでした。欧米の様なタイムイズマネー的な、個人の時間としての価値観はあまり発展せず、従って、共同体から自由になる個人としての時間の観念は、日本では明治期以降に確立されました。

「時の鐘」の衰退

改暦弁(セイコーミュージアム所蔵)

明治期に入って、明治初年の神仏分離令による神社からの「寺の鐘」の撤廃や、明治6年(1873年)の改暦による太陽暦と時・分・秒による定時法の導入によって、不定時法による「時の鐘」の時報手段は徐々に少なくなり、明治後期になると各地に建設された定時法による時計塔の普及によって、「時の鐘」による時報システムは衰退して行くことになります。

改暦弁

参考文献
  • 「時計の社会史」角山栄著 中公新書
  • 「江戸の時刻と時の鐘」浦井祥子著 岩田書院
  • 「大江戸時の鐘 音歩記」吉村弘 春秋社
  • 「柏木家文書」台東区立中央図書館