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精工舎を中心とした日本時計産業の発展

日本では、改暦以降明治初期には各地に時計師が現れて、
次第に時計商工業が興隆していきます。明治期以降の発展を見ていきましょう。

既に西洋時計で戦っていた薩長軍

J・ファブル・ブランド
ファブル・ブランド商会が輸入した懐中時計(セイコーミュージアム収蔵)

1859年(安政6年)に横浜が開港され外国人の居留地が認められると、スイス使節の書記官として来日したジェームス・ファブル・ブランドは、薩摩藩に非公式顧問として招聘され、薩摩藩の鉄砲・弾薬などの火器調達を一手に引き受けるようになります。父親がル・ロックル伝統の時計宝飾師だったことから、既に1864年(文久4年)には横浜に輸入商館を構え、改暦が施行される8年も前からスイス製の掛時計・懐中時計の日本への輸入販売を開始し、西洋武器のみならず西洋時計の日本への普及を図っていたのです。

横浜商館天主堂ノ図 3代広重画

戊辰戦争(1868-69年)では、幕府軍がまだ不定時法の和時計による大まかな戦略を基に、旧式の武器で戦っていたのに対して、英国や欧州連合艦隊との敗戦から学んだ薩長軍は、ファブル・ブランドから仕入れた最新の西洋の火器と懐中時計を基に、いち早く定時法の細かな時間管理による綿密な戦略を立てて戦っていた、と言われています。
鉄砲も新式、作戦も綿密に管理統率されていた薩長軍に、旧態依然の幕府軍が敗れ去るのは、ある意味必然の出来事でした。西郷隆盛の遺品の中にも、1869年(明治2年)製のロンジンの金側懐中時計があったそうです。

明治改暦による混乱

福沢諭吉

明治維新後1872年(明治5年)に、明治政府は様々な旧制度の廃止と開化政策を実行しますが、その一環として太陰太陽暦に変わる太陽暦、そして時・分・秒の細分割による時間管理の定時法の採用という、いわゆる改暦も行われました。

欧米歴訪によって、欧米文化の素晴らしさ、新暦の便利さを自ら体験している福沢諭吉が、「改暦弁」を発行して新暦のメリットをわかり易く説いて、その啓蒙に勤めました。
この中で、彼は、「日本国中の人民、これ改暦を怪しむ人は必ず無学文盲の馬鹿者なり。これを怪しまざる者は必ず平生学問の心掛ある知者なり。」とまで述べています。

時計と社会のかかわり:暦の変遷

改暦によって、欧米列強との外交や通商での混乱がなくなり、官員・将校や富豪の間のステータス・シンボルとして金側の懐中時計が流行り始め、掛・置時計は学校・役場・交番・郵便局などの公的機関や店舗等に設置されるようになりました。
しかしながら、三年に一度だけ閏月をいれて調整する慣れ親しんだ太陰太陽暦での生活から、四年に一日だけ増やして閏年とする太陽暦での新しい生活への切り替えは、今までの農業や祭事、お盆などの年中行事の日程が全て新しくなることを意味していたために、お盆の時期が地域によって分かれるなど日常生活にかなりの混乱をきたし、全国的に新暦に国民が慣れるまでには、ある程度の年月が必要だったようです。

定時法の定着と時計商工業の興隆

一挺に改造した二挺天符櫓時計(セイコーミュージアム収蔵)

定時法による時刻制度は、1880年代頃から学校教育での全国時間割設置などによって、ようやく全国的に定着していきました。また、1880年代末頃からの会社設立ブームおよび高等教育の整備などによる会社勤めサラリーマンや書生階級の増加、都市中産階級の芽生えなどによって、時計への需要が増えていきます。
時計が生活の必需品となるにつれて、東京・京都・名古屋・大阪を中心に時計商が増え、同時に工場を開設して製造する業者も出てきました。
明治初期の時計師は、不定時法の和時計を定時法に改造したり、外国商館の西洋時計の修理が主な仕事でしたが、明治半ば以降需要が急増したことで、まずは掛時計の製造工場が各地に出来て、欧米の製造技術を模倣しながら、時計商工業が盛んになっていきます。
当時の時計は、まだ高価な割に故障も多く修理して一生大事に使うケースが当たり前だったので、多くの場合時計商は、同時に熟練した修理職人であり、そのことから、時計商が多く集まる四大都市に、掛時計の製造工場も多く出来るようになりました。

名古屋と大阪における時計工業の発達

名古屋は徳川幕府の御膝元であり、和時計の時代から時計師による時計製造の伝統が息衝いていたこともあり、1887年(明治20年)に日本で最初の掛時計工場、時盛社(林時計)が生れ、その後は、10数社の完成品メーカーや、多くの部品・外装の関連工場が集まる時計産地となりました。
また大阪には、1889年(明治22年)設立の大阪時計製造株式会社が生れ、1895年(明治28年)にはアメリカから技術・製造機械設備を導入して、懐中時計の生産に日本で初めて成功しました。

精工舎の差別化戦略

30歳代の服部金太郎

セイコーの創業者服部金太郎は1860年に生まれ、13歳で時計店に丁稚奉公に入り、1881年に時計の修理・販売の服部時計店を創業し、1892年(明治25年)に31歳にして工場である精工舎を設立します。
精工舎の設立にあたって、金太郎は技師長吉川鶴彦と共に、名古屋の時盛社を訪問して、掛時計製造のノウハウを入手したと言われています。

服部金太郎物語 第一話

精工舎
青硝子枠置時計

精工舎の創業から数年間で、当時、主に名古屋に多く存在していた掛時計工場は、共同出資の株式会社が多く、また低コスト・低品質の価格競争に巻き込まれていたために高い配当を支払い続けられなくてその多くが倒産し、淘汰されていきます。
精工舎は価格競争を避けるために、高値でも高品質の製品群を製造販売の中心に据え、まだ誰も手掛けていなかった金属枠の置時計や日本初の目覚時計、その後は、たとえば江戸切子を外装デザインに使った付加価値の高い独自ラインを投入するなどして、差別化を図り、売上を拡大していきます。

服部金太郎による欧米技術の習得

当時のウォルサム工場

1899年と1906年の二度にわたる金太郎の欧米時計工場視察は、精工舎の製造技術の進歩、販売の拡大、組織の強化の点で大いに役立ちます。
具体的には、アメリカのウォルサムやエルジン工場で見た標準化された掛置時計・懐中時計部品の合理的な量産ラインのレイアウト、部品製造の自動化といった製造管理システム、一方で、独・仏・スイスの各工場で見た独自の多品種少量生産システムや、購入し持ち帰った多様性があり洗練されたデザインの置時計・懐中時計類、また欧州の各工場に備わっていた時計学校や寄宿舎制度などです。
金太郎は、アメリカ式の大量生産システムに感銘を受け、若い労働者を多く雇い、早速工場の敷地内に寄宿舎を建てます。そして、夜間に私立学校の教師を招いて、生徒達に賃金を払いながら、国語や算数なども含めた学問と教養を身に着けさせました。
本来、競合他社であるはずの日本の時計メーカーに、欧米の一流時計メーカーが快く工場の内部を開示し、一部最新式工作機械まで融通したのは、金太郎自身がそれら訪問先の時計の輸入販売業者であった点を勘案しても、彼の人柄・人徳によるところが大だったと思われます。

自社設計の自動旋盤で懐中時計事業の黒字化へ

ピ二オン自動機

1908年に吉川鶴彦の創案で、米国の自動機を参考に一台の機械でピ二オン(かな)の荒挽・歯割・仕上の三工程を一気に完結できる革新的な自動旋盤を完成させます。この導入によって、一日の生産効率が飛躍的に伸び、かつて25人を擁していたピ二オン加工が1人でできるようになったと伝えられています。
もともと吉川鶴彦は、懐中時計のケースへの魚子(ななこ)彫りの名人で、そのための工作機械を自ら考案する機械造りに長けた技術者でした。

エンパイヤ

懐中時計事業は、1895年の「タイムキーパー」から製造し始めますが、機構も複雑、部品点数も多く、高度な技術と高価な設備を必要とします。また、掛・置時計と違って、精密な部品は輸入に頼っていたために、コストが下がらず、なかなか黒字化しませんでした。研鑽を重ね、機械体の設計を合理化し、自社技術で設計した自動旋盤で大量生産ができるようになると、品質も安定し、コスト・小売価格を下げることが可能になり、需要も増えてビジネスとして成り立つようになりました。
そのターニングポイントとなった最大のヒット作が、このピ二オン自動旋盤を使って明治末期1909年に製造を開始し、大正・昭和初年代まで続いた名機「エンパイヤ」です。

垂直統合型ビジネスモデル完成でいよいよ腕時計製造へ

服部金太郎

1910年には、ついにもっとも難しい部品であったひげぜんまいの自社製造に日本で初めて成功し、これでエンパイヤはすべての部品を自家加工した初めての製品になりました。
すべての部品を自社で効率よく生産し、品質・納期・コストを一つ屋根の下で管理する、世界的に見ても特有なセイコーならではの垂直統合型のビジネスモデルの原型は、既に1910年に完成していたのです。
こうして整った体制を基に、いよいよ個人への時計の普及が中心になると予測していた金太郎は、腕時計の開発に着手します。
懐中時計事業が15年間赤字でも、掛時計・置時計の売上・利益があったからこそ、長期的な戦略で懐中時計を「より薄く小さく」するための研究開発を我慢強く続けました。

服部金太郎物語 第四話

東京では共同出資で日本懐中時計製造株式会社が生れ、懐中時計の製造・販売を試みましたが、創業期の技術的に未完成な製品を、資金回収を急ぐ短期的な大株主の配当圧力で市場に出したために、信用を得られずわずか数年で破綻してしまいました。
また、前述の大阪時計製造株式会社も、懐中時計製造一式の設備投資や10数名もいた外国人技師などの割高なコストのつけで、経営がじり貧に陥り、解散を余儀なくされてしまいました。

日本初の腕時計ローレル

結果として1910年の時点で、懐中時計の開発・生産を継続出来ていたメーカーは日本で唯一精工舎だけだったと言われており、この外部資本を入れない地道な経営努力があったからこそ、その後の1913年に始まるローレルからの腕時計ビジネスが開花し、今日までの時計事業継続があるのです。
「東洋の時計王」と呼ばれた服部金太郎は、まさに明治期以降の日本の時計産業の発展に最も貢献した人物でした。

会社と製品の歴史 1881~1920年代

参考文献
  • 「時計工業の発展」 内田星美  セイコー時計資料館
  • 「精工舎史話」   平野光雄  精工舎
  • 「時計のはなし」  平井澄夫  朝日新聞出版