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アメリカ時計産業と鉄道時計

アメリカでは、1891年の鉄道事故キプトンの悲劇をきっかけに、
精度を向上させ大量生産の時計産業が花開きます。

アメリカにおける時計製造の開始

北アメリカで最初に時計を製作し始めたのは、イギリス、ドイツやオランダで時計の製造技術を学んで、アメリカ大陸に移民してきた人たちで、1800年頃までは、イギリス風の高さ2メートル近くもあるロングケース・クロックの製造が最も一般的なもので、多くがウェストミンスターなどのチャイムを伴う時打ち機能付だったようです。
ただし、この通称グランドファーザ―ズ・クロックは、時打ちのためにムーブメントが複雑で、キャビネット(ケース)は、家具職人が手作りで丹念に造るので、時間もコストもかかりました。アメリカではこれが次第に簡素化されて、19世紀上旬以降は一般的な掛時計が普及していきます。

アメリカ式のクロック大量生産方式の始まり

アメリカには、欧州と異なり中世以来のギルド的手工業の伝統がなかったことと、広大な市場に旺盛な需要があったので、いわゆる部品の規格標準化と互換性のある部品の機械による大量生産システムが、早くから発達します。
まずは、1798年に綿織り機から大量生産方式が始まり、クロック、コルトのピストル、マコーミックの刈取機、シンガーのミシン、その後は、タイプライター、自転車、自動車などに広く応用されていきます。

イーライ・テリー

クロックは、既にイーライ・テリーが1802年に水力を動力とする工場をつくり、全生産工程を効率よく25の分業工程に分けて、年間200個の生産を成し遂げます。その後、工場を拡大して、やがて年間6000個のシェルフ・クロック(棚置クロック)の大量生産を可能にし、製造コストを大幅に下げることに成功します。
テリーは、自社製のクロック・ムーブメントと、ムーブメントを組み込むキャビネットのデザインと製造方法のパテントを、地方ごとのキャビネット・メーカーに売り込んで、全米各地でキャビネットの製造とその中にムーブメントを取付け、クロックの完成品とさせるばかりでなく、それらを販売させることをも、全米で組織化するのです。
すなわち、各地のキャビネット・メーカーには、冬はケースと完成品の製造、夏はその各担当地域における卸・小売セールスを担わせることで、年賦販売によるクロック全米ディストリビューション・システムを同時に確立したのです。

ウォルサム等による懐中時計の量産化

ウォルサム工場

その後アメリカでは、19世紀の半ばに、掛時計に加えて懐中時計の製造が始まります。
まず1854年に、ウォルサムの前身である懐中時計メーカー、ボストン・ウォッチ・カンパニーがアーロン・デニソンにより設立されます。デニソンは、ホィットニーのライフル銃の機械生産工場を見てウオッチの大量生産を思いつき、イギリスやスイスの懐中時計工場を見学して製造ノウハウを取得して、アメリカにウオッチ工場を興したのです。

南北戦争(1861-1865)によってポケットウオッチの需要が増し、1864年の生産数は既に約12万個にもなり、その需要の半数近くが兵隊用の懐中時計で占められたといわれています。社名(=ブランド名)は、1859年にアメリカン・ウオッチ・カンパニー、1885年にはウォルサム時計会社と改称されました。
また、1864年にはエルジン、1892年にはハミルトンが設立され、この3社がアメリカのポケットウオッチ量産メーカーの主役となります。また、1881年には、ロバート・インガゾルが、“The Watch that made the dollar famous(1ドルを有名にする時計)”というキャッチコピーで有名な、「1ドル・ウオッチ」の通信販売を始め、その割安な価格で1896年には既に100万個の懐中時計が販売され、ポケットウオッチの大衆化に大きな貢献をしました。
広大な国土と豊かな天然資源に恵まれたアメリカの時計産業は、時計製造に必要な鋼、真鍮、その他の材料が豊富に自給できたので、19世紀後半にかけての大量生産方式で、時計生産個数で、既にヨーロッパの国々を追い抜くまでに発展したのです。

服部金太郎による欧米技術の習得

「キプトンの悲劇」をきっかけにした正確な鉄道時計

アメリカ製鉄道時計

戦争による旺盛な軍人向け需要と同時に、懐中時計の大衆需要を喚起したのは、鉄道網の発達でした。
アメリカでは、特に1880年代以降、南部西部も含めた北米大陸全土に大陸縦横断鉄道網が拡張されていきますが、安全な鉄道運行には、小型で見易く正確で蓋のない懐中時計型の鉄道時計は欠かせず、ポケットウオッチの全体需要は大いに拡大します。
単線を走る上り、下りのどちらかの列車を時間通りに待避線に導いたり、急行列車を駅や各地点でやり過ごしたりする安全確認は、すべて機関士や配置された鉄道員が携帯する時計の精度が同じであることが大前提となっています。

キプトンの悲劇
ボール ウォッチHPより

1891年にオハイオ州キプトンで起きた、後に「キプトンの悲劇」と呼ばれる列車同士の正面衝突事故は、片方の列車の機関士が所持していた時計が4分くるっていたことが原因で、双方の機関士と9名の乗務員が犠牲になりました。
この事故を重く見た当局が、地元の標準時を管理していた時計宝石商ウェブ・C・ボールを鉄道監督検査官に抜擢し、事故状況の調査と、今後正確に運用するためのシステムを開発するよう要請しました。
彼は調査の結果、鉄道員が専門に使用する鉄道時計の認定基準「レイルロード・アプルーブド」を1893年に策定して、今後はこれらの基準を満たした鉄道時計を造りそれだけが使用されるように、各時計メーカーに製造を依頼するようになるのです。

「レイルロード・アプルーブド」基準と製造メーカー

主な鉄道時計の基準は以下の通りです。

  1. 1.アメリカ製16もしくは18サイズのムーブメントを使用すること
  2. 2.最低17石の時計であること
  3. 3.最低5姿勢で調整すること
  4. 4.精度は1週間に30秒以内であること(満たさない場合は再調整後再検査)
  5. 5.温度は華氏40度から100度(摂氏換算で4.4度から37.8度)に耐えうること
  6. 6.白い文字板に、黒いアラビア数字で、太い針が付いていること
  7. 7.秒単位の時間調整が可能なこと
  8. 8.蓋のないケースに収めること

このように、現場で一瞬のうちに時刻を正確に確認できる鉄道時計としての認定基準が、細かく明文化されました。
機関士は、蒸気機関を動かすために常にボイラーに石炭をくべなければならず、高温と走行中絶え間ない振動に晒されるために、鉄道時計は、他のどんな懐中時計以上に高い機密性と振動に耐えうる耐久性、高い信頼性が求められました。その環境下で1週間に30秒以内という精度は、当時の水準からすれば、限りなく高い基準値でした。

ウォルサム鉄道時計
(セイコーミュージアム収蔵)

この厳しい基準を満たす時計をウォルサム、エルジン、ハミルトンなどがまず製造し、スイスメーカーでもロンジン、ゼニスなどが後に続きます。
高精度を出すために、各社とも大きな切りてんぷに巻上げひげぜんまいを使い、てんぷの振り座(ロ−ラ−テ−ブル)の振り石(インパルス・ピン)による振り角を制御するために、振り座を2重にした「ダブルローラー」と言われる構造を採用しました。また、秒単位の時間調整を可能にする緩急微調整装置も付いていました。

こうして、アメリカのウオッチ会社は、鉄道時計製造で培った懐中時計に対する高い精度と信頼性をもとに、その後、更なる発展を遂げていくのです。
特にウォルサムは、信頼性の高さから世界各国の鉄道で標準採用され、日本の鉄道作業局(後の国鉄)でも1897年から、標準鉄道時計として採用され、1929年に精工舎の鉄道時計「セイコーシャ」にとって変わるまで、日本では使われ続けました。
また、ハミルトンは、「ブロードウェイ・リミテッド」という正確な鉄道時計で有名になり、その後はその信頼性が評価されて、更に過酷な環境下でも使える航空用時計や軍用時計のメーカーとして名を馳せるようになりました。

ハミルトン社製鉄道時計

「鉄道時間」から生まれた「標準時」の考え方

18世紀の中頃までは、時間は通常各町にある日時計を基準に町ごとに決められていたために、同じ国の中でも当然経度の差によって町ごとに、経度1度あたり4分の時間がずれていました。
まず世界で最初に鉄道が作られたイギリスで、19世紀前半に地方ごとに鉄道会社が出来て段階的に鉄道網が発達していきますが、鉄道会社の列車運行時間は、それぞれの会社が本社を置く所在地に基づいていました。町を早いスピードで跨ぐ鉄道が発達するにつれて、列車会社ごとにばらばらな列車ダイヤは、かなりの混乱を招き事故の原因になるために、共通の時間による管理が求められるようになります。

グリニッチ天文台

そこで、グリニッジ標準時を標準の時間とする「鉄道時間」という標準の時間体系が生れていきます。実際には、まず各鉄道会社が1850年頃から、お互いに事故を防ぎ利便性を増す必要性から、自主的にグリニッジ・タイムの採用に踏み切り始めます。
最終的には1880年、法律で「グリニッチ天文台の標準時をもってイギリス全土の標準時とする」ことが、定められます。
一方、広大な横に広がる国土を持つアメリカでは、当時全米に80を超える数の鉄道会社の標準時間が設けられており、しかも各鉄道が使う標準時間は、各地方の現地時間とも食い違っていたために、大変な混乱が生じていました。

秒単位の精度の追及をした多くの天才科学者

1883年にアメリカの一部の鉄道会社がアメリカ全土を4つのタイムゾーンに分けた鉄道時間を使い始めますが、翌1884年ワシントンでの国際子午線会議で、アメリカが提案した「グリニッジを通過する子午線をゼロにしたグリニッジ・タイムを世界標準時として、世界を1時間ごとの時差を持つ24の時間帯に分けること」が正式に採用されたことで、全米に広まります。
すなわち、アメリカ全土の4つのタイムゾーンが標準時として国際会議で承認されたので、全米に広がる他の鉄道会社でも、合理的で便利なシステムなので、これを共通の「鉄道時間」として採用をし、鉄道の利用者もすぐにその標準時システムに慣れていった、といわれています。
尚、グリニッジ標準時(GMT)が、海上においてもすべての陸上交通においても、世界で一般的に普及していくのは、時差を跨ぐ車や船による交通が普及する1920年代になってのことであり、それまでの標準時とは「鉄道時間」を意味していました。

参考文献
  • 「時計のはなし」    平井澄夫       朝日新聞出版
  • 「時計の社会史」    角山 栄       中公新書
  • 「時計」        山口隆二       岩波新書
  • 「時計の話」      上野益男       早川書房
  • 「時計文化史」     E・ブラットン    東京書房
  • 「鉄道時計ものがたり」 池口英司・石丸かずみ 交通新聞社
  • 「新軍用時計」     今井今朝春      グリーンアロー出版