ここから本文です

脱進機の進化3

- 近代・現代の脱進機 -

ビック・ベンの脱進機

二重三脚重力式脱進機

脱進機の発明・改良は室内用クロックや懐中時計にもっぱら向けられていましたが、1859年に製造されたイギリスのウエストミンスターの大時計ビック・ベンには、国家の威信をかけた時計史に残る脱進機があります。
英国王立天文学会がこの大時計の建設にあたって打ち出した構想は、文字板の大きさは約9メートル、針も大きく重く、塔の上での雨風の影響もある中で、一日の誤差わずか1秒以内で15分単位で時鐘を鳴らす正確さを保つものを作る、というものでした。
この高いハードルに対して、枢密院議員だったエドムンド・デニスンは、「二重三脚重力式脱進機」という全く新しい機構を生み出します。
振り子は、長さ3.9メートル、重さは300Kgもありましたが、振り子の両側に脚をつけ、三脚の脚が前後二重に分かれて60度ずつ正確に回転することで、両側の脚が交互に規則正しく振り子の振り玉を蹴るという画期的な脱進機です。この機構によって、大型ながら脱進機にかかる摩擦や衝撃を防ぎ、突発的に針にかかる重さにも耐え得ることに成功したのです。
当時開発された脱進機構で、いまだに誤差一秒以内で動き続けている、正に画期的な発明でした。

  • ※1854年に制作されたこの試験機が、セイコーミュージアムに展示されています。

安く大量に作れるピン・レバー脱進機

クラブトゥ―ス・レバー脱進機とピン・レバー脱進機の比較

スイス人のL・ペロンは、1834年にピンアンクル脱進機を発明し、その後1867年に、同じスイス人のG.F.ロスコフが、ペロンの考案したピン式アンクルを使って安く作れる「ロスコフ脱進機(ピン・レバー脱進機)」を開発します。
クラブトゥ―ス・レバー脱進機と比較すると、がんぎ車の歯の形状が単純で、アンクルの摩耗を防ぐルビーの爪、そしてアンクルの振り石も、それぞれ金属製のピンで代用しています。

ピン・レバー脱進機

この機構は、安く作れますので、その後ピン・レヴァー・ウオッチとして安値で普及しましたが、摩耗が速く精度も低くて、寿命も短いことから、使い捨て時計となり、その後廉価のクオーツ時計の普及とともに、ほぼ姿を消してしまいました。

その他の脱進機

永久カレンダー、ミニッツリピーターなど時計に数々の革新的技術を生み出したフランス人アブラアン・ルイ・ブレゲは、1801年に調速脱進機が回転することで重力の影響を受けにくくして高精度を保つ、トゥールビヨンの特許を申請しました。
これは、ムーブメントを回転する台座にのせ、それを1分間、あるいは4分間に一回転させることによって、てんぷの姿勢差による振動誤差を平均化する装置でした。

トゥールビヨン
ブレゲによるトゥールビヨン機構
コーアクシャル脱進機

その後時を経て、1974年にイギリス人ジョージ・ダニエルズは、2枚のガンギ車を同軸上に配置することでガンギ車の歯先にかかる摩擦を最小限に抑える設計のコーアクシャル脱進機(同軸脱進機)を発明します。
これには潤滑油の補給の手間を減らすメリットもありました。

脱進機開発その後

今まで見てきたように、脱進機の進化の歴史は、振り子やてんぷが振動している振動周期の全期間において、いかに歯車の干渉時間を減らして摩擦による誤差を少なくするかを追求する歴史でした。

今日も、各メーカーは、脱進機の摩擦軽減と軽量化による精度の向上、加えて駆動効率の改善、そして、脱進機への無注油化によりオーバーホールの間隔を長くすること、などを脱進機の進化の方向に据えて、開発を継続しています。

シリコン素材を、ひげぜんまいのみならず、がんぎ車やアンクルに使うメーカーが増えていますが、これもシリコンが完全な平滑面を持ち硬くて軽いので、摩擦による精度誤差が減ると同時に、注油の頻度を減らすことができるからです。

シリコンは固い一方で衝撃を受けると脆い一面があるため、セイコーでは採用していません。

Grand Seiko MEMS製アンクル・がんぎ車

その代わりに、半導体の製造技術を応用した高精度の部品製造技術MEMS (Micro Electro Mechanical Systems)でニッケル素材のがんぎ車とアンクルをつくり、がんぎ車の歯先に保油構造をつくることで注油の手間を省くと同時に、軽量化による精度向上と駆動効率の改善を実現しています。

その一方で、セイコーは、アンクルとがんぎ車との摩擦による誤差を完全になくすために、ぜんまいがほどける力で輪列を動かす機械式時計でありながら、てんぷ、アンクル、がんぎ車の代わりに、水晶振動子からの信号をもとに、ICが輪列の最後の車(ローター)の回転に電磁ブレーキをかけて、ローターの回転スピードを正確に8Hzに制御することでクオーツ時計並の精度を出す、スプリングドライブという、調速脱進機に代わる独創的な機構も開発しています。

また、セイコーは、現在でも10振動による高精度の機械式時計を製造販売している数少ないメーカーの一つですが、その背景には、エンジンである動力ぜんまい、心臓であるひげぜんまいの双方を新たに素材から開発できる高い技術開発力と、ひげぜんまいを調整できる卓越した技能士の匠の技があります。
1960年代後半~70年代当時の10振動時計は、主に高精度だけを求められていましたが、今の時代は、同時に、長い持続時間と、耐久性・耐磁性が求められるために、トルクが強く大きなエネルギーを生み出す新しい動力ぜんまいと、その限りあるパワーを10振動でも省エネルギーで効率よく動かすひげぜんまい、軽量で耐久性のあるがんぎ車・アンクル、これら全ての新たな開発によって、最適なエネルギー収支バランスと駆動効率をもった、高精度の10振動時計を実現しているのです。

参考文献
  • 「時計理論マニュアル3 脱進機」 第二精工舎(現セイコーインスツル)
  • 「時計の話」 平井澄夫 朝日新聞出版
  • 「時計」 山口隆二  岩波新書
  • 「時計の話」 上野益男 早川書房