“深海の黒い顔“

セイコーダイバー・プロフェッショナル600開発の記

1975年6月に発売された「セイコーダイバー・プロフェッショナル600」は発売と同時に、多くのプロのダイバーの方々から高い評価を得てきました。
40年過ぎた現在でも、初代ダイバー・プロフェッショナル600の“コンセプト"を引き継ぎ、進化を続けています。 今回はその開発の経緯をご紹介します。

この記事は、ダイバー・プロフェッショナル600の開発リーダーでデザイナーであった田中太郎氏が国際時計通信誌(No.442:2009年1月発行)に寄稿した記事をほぼそのままの形で掲載しています。

STORY 01

クレームの手紙から

商品開発の発端は1968年に服部時計店(現セイコーウオッチ)に届いたー通のクレームの手紙からでした。

「潜水カプセルを使って350m の深海で作業をするダイバーです。 350mの海底に潜るにあたって、潜水する前の加圧(35気圧)は短時問でできるのですが、潜水を終わったあとは減圧用のカプセルに入って徐々に減圧をする必要があります。 海底での作業は極めて厳しく、貴社の現在の300m仕様の潜水用腕時計では使用に堪えないのです・・・」

STORY 02

今のダイバーズウオッチは使用に堪えない?

飽和潜水に耐えられなかった300mダイバーズウオッチ
飽和潜水に耐えられなかった300mダイバーズウオッチ

使用に堪えない?

当時のセイコーのプロ用ダイバーズウオッチは1968年に開発した300m防水仕様でした。 防水性に万全を期すため、スイスにも例のなかったワンピース構造を採用し、ガラス部には水分を完全に遮断する特殊硬化処理の無機ガラスを採用した自信作でしたので、この手紙に書かれていた"使用に堪えない"という言葉は、開発陣にとってにわかには信じられないものでした。

とにかく、そのダイバーの話を聞いてみよう!

ということになり、手紙の主にお願いしたところ、快く服部時計店に来てくださいました。その手紙の主とは、日本海洋産業株式会社(後に住友海洋開発株式会社となる)に所属するプロダイバーの大島洋氏でした。

STORY 03

飽和潜水ってナニ?

そこで大島氏から聞かされた話は、「石油掘削船での潜水作業」とか、「へリウムを使用しての飽和潜水」、「潜水カプセル」、「減圧カプセル」とか、それまでに耳にしたことのないものばかりでしたが、とにかく“300m 仕様のダイバーズウオッチでは使用に堪えないらしい”ということだけははっきりしました。
そこで、「その掘削船や潜水用の機材を見せて頂きたい。飽和潜水の詳しい話を聞かせて頂きたい」とお願いしたところ、大島氏は快く承諾してくれました。

STORY 04

石油掘削船を訪ねて

遠くから仰ぎ見る石油掘削船・リグ
遠くから仰ぎ見る石油掘削船・リグ

石油掘削船が係留してあるのは広島県の呉港でした。 セイコーからは開発リーダーの田中と諏訪精工舎設計課の技術者(赤羽)の2名が訪問しました。
呉港で見せられたのは、まさに・・・想像を絶するモノでした。
モーターボートに乗って沖に向かい、"あれですよ !"と指差されても、それらしき船が見あたりません。よく見ると、何本かのクレーンを載せた巨大なヤグラのようなものが海中にそびえていて、それが石油掘削船・リグだというのです。一般的な「船」というイメージはどこにもありませんでした。

STORY 05

潜水カプセルと減圧カプセル

(左)ワイヤで吊り下ろされる球状の水中エレベーター「ベル」            (右)へリウムと酸素の混合気体が送られる「水中マスク」
(左)ワイヤで吊り下ろされる球状の水中エレベーター「ベル」            (右)へリウムと酸素の混合気体が送られる「水中マスク」

潜水カプセル・ベル(BELL)

"これが潜水カプセルの「ベル」です"と言って見せられたのが、球状の水中エレベーターでした。「ベル」にはダイバーが2人 1組で乗り、ヘリウムと酸素の混合気体で、あらかじめ海底と同じ気圧まで加圧した後に海中に泳ぎ出て作業をするのだとのことです。その内部は極めて狭く、写真撮影もできませんでした。
左図、ワイヤで吊り下ろされる球状の水中エレベーター「ベル」の球状のカプセルの下部にはへリウムと酸素の混合気体を詰めたボンべが縦列に装着されています。

甲板上に設置された減圧カプセルとその入出口
甲板上に設置された減圧カプセルとその入出口

減圧カプセル

潜水が終わってから数日間を減圧のために過ごすという「減圧カプセル」も見せられました。船上に据え付けられた大きな円筒形のカプセルですが、内部は立って歩けないような狭い空間でした。

STORY 06

プロダイバーたちの切実な声 (ダイバーズウオッチへの要望)

大島氏や仲間のダイバーたちから飽和潜水作業の実態とダイバーズウオッチの役割について詳しくお話を伺う中で、次のようなコトバ(問題点)が強く耳に残りました。
これらの声が、やがてダイバー・プロフエッショナル600誕生のきっかけとなります。

ムーブメントに関する切実な声
1. 水中では電気溶接もやりますので、時計の耐磁性が心配。
2. 潜水中に時計が止まらないかどうか心配。
3. 信頼性を確かめるために陸上にいる時も腕に着ける。

針とダイヤルに関する切実な声
1. 潜水中は分単位で経過時間をチェックする。
2. 薄暗いときに時間が見にくい。真っ暗闇の中でも見やすくないと困る。

ケースに関する切実な声
1. 狭い潜水カプセルの中や海底での作業中に、腕や時計によくケーブルが絡んでわずらわしい。
2. 狭い潜水カプセルの中に2人が詰め込まれるので、腕時計に鋭い部分があると危険。
3. 腕時計はアチコチぶつけるので、すぐに傷だらけになってしまう。
4. 潜水作業が終った後、減圧カプセルの中で時計の具合が悪くなることがよくある。
5. 甲板の上で時計を落すと、たいていリユウズが取れたりガラスが割れたりして壊れてしまう。
6. 船上での潜水機材のメンテナンス時に、時計の回転べゼルと胴のスキマに入り込んだグリスオイルが、石油で洗っても取れにくくて困る。
7. 回転べゼルと擦れてワイシャツやスーツがすぐに傷む。

バンドに関する切実な声
1. 海底では温度が低いので、現在(ビニール製)のバンドは硬くなり、折れやすい。
2. 潜水前に腕時計のバンドをきつく締めても、水圧によって海底では緩くなる。

外観に関する切実な声
1. 外国などで、フォーマルな場に出ても恥ずかしくない時計であってほしい。

「これらの切実な声をすべて解決するのは不可能だ」と感じましたが、命をかけて潜水作業をしているプロダイバーの方々の姿を目の当たりにし、開発リーダーとして、インダストリアル・デザイナーとして、すべての声を受け止めて、問題を解決しようと固く決意しました。

STORY 07

ムーブメントの解決策

ムーブメントに関する切実な声

1. 水中では電気溶接もやりますので、時計の耐磁性が心配。
2. 潜水中に時計が止まらないかどうか心配。
3. 信頼性を確かめるために陸上にいる時も腕に着ける。



飽和潜水に耐えられるダイバーズウオッチに求められるムーブメント特性は、「耐衝撃性」、「耐震性」、「耐磁性」そして見やすくするために大きく重くなる針を支える「大きな運針トルク」でした。

・300mダイバーズウオッチと同じCal.6159 を採用しました。61系はグランドセイコーにも搭載された当時もっとも信頼性が高く実績のあるムーブメントです。
・また、ケースの底部とムーブメントの間に「耐磁板」を入れ、耐磁性を大幅にアップさせました。

STORY 08

針とダイヤルの解決策 (見やすさの追求)

針とダイヤルに関する切実な声

1. 潜水中は分単位で経過時間をチェックする。
2. 薄暗いときに時間が見にくい。真っ暗闇の中でも見やすくないと困る。



ダイヤル面を黒ナシ地仕上、時字は白色印刷・白色夜光塗料付きとし、時・分・秒針は金属の質感をアピールできるように虹挽き仕上としました。

・時字は、12時以外の時字は暗闇の中で夜光塗料が最も効率よく光って見える円形とし、12時の時字は一見して他と識別しやすいように三角形としました。
・分針を極端に太くして真っ先に目に入るようにしました。時針と識別しやすいように、夜光塗料部の位置と大きさと形状に工夫をこらしました。
・秒針には大きめの円形の夜光塗料をつけ、薄暗いところでも真っ暗やみでも、時計が"動いている"ことを確認できるようにしました。
・世界初の白色夜光塗料「NW 夜光(※)」を採用しました。 日中見ても鮮明で見やすく、精密感と高級感のあるダイヤルと時・分・秒針をデザインすることができました。
※根本特殊化学に開発要請していた”高級品向け夜光“

STORY 09

ケースの解決策

ケースに関する切実な声

1. 狭い潜水カプセルの中や海底での作業中に、腕や時計によくケーブルが絡んでわずらわしい。
2. 狭い潜水カプセルの中に2人が詰め込まれるので、腕時計に鋭い部分があると危険。
3. 腕時計はアチコチぶつけるので、すぐに傷だらけになってしまう。
4. 潜水作業が終った後、減圧カプセルの中で時計の具合が悪くなることがよくある。
5. 甲板の上で時計を落すと、たいていリユウズが取れたりガラスが割れたりして壊れてしまう。
6. 船上での潜水機材のメンテナンス時に、時計の回転べゼルと胴のスキマに入り込んだグリスオイルが、石油で洗っても取れにくくて困る。



解決しなければならない問題点は多岐にわたっており、いずれも難題でした。

・「ワンピースの内胴に回転ベゼルを載せ、それをそっくり外胴でカバーするケース構造(バラせるケース構造)」を考案しました。これにより、グリスオイルがこびりついても、 4本の固定ネジを外せば外胴で押さえている回転ベゼルと内胴をバラして簡単に取り出せ、それぞれ別に丸洗いすることができると考えたのです。そして、耐食性を上げながら軽くするため、ダイバーズウオッチでは初めてとなるチタニウム製ケースを採用することにしました。
・外胴は「円錐形」にし、上の縁も下の縁もすべて丸みをもたせて危険性をなくしました。 この外胴をガードとして機能させることにより、回転ベゼルとリユウズをケーブルや口ープの絡みつきや落下の衝撃から防ぐことができ、日常生活でのシャツやセーターやスーツを損傷する恐れをなくすことができました。
・指で回転ベゼルを回すための最小限度の切り欠き部(2時・8時位置)以外は外胴でカバーし、不用意にズレたりする恐れをなくすようにしました。
・リユウズは潜水作業中に手首の屈曲を妨げないように、ドライスーツを損傷することがないように、また、甲板に落すことがあっても直接衝撃を受けないようにするため、 300m ダイバーズウオッチと同じ「4時位置」としました。
・「平面ガラス」の採用で、ガラス上面を回転べゼル上面よりも下げることができ、ガラス面が破損したり傷ついたりする危険性を著しく小さくすることができました。
・傷を防止するため、ケース外胴に超硬質材を高温で溶射するという通称「黒溶射処理」技術を開発しました。

上記の問題点以外にも、設計面、技術面そして製造面で解決しなければならない難題が沢山ありました。
それらの主な問題は以下の通りです。

・分子の小さなヘリウムが時計内部へ浸入するのを防ぐために、ガラス周りとリユウズ周りのパッキン材質や固定方法を根本的に見直すこと。
・加圧だけでなく減圧にも耐えられるようにすること。
・長期間にわたる耐水性・耐食性を強化すること。
・耐食性があり、強度が高く、しかも軽いチタンを素材として採用し、時計ケースに加工すること。
・ガラス内面が温度差で曇らないようにすること。

これらの難題を解決するために、呉港での探査後直ちに技術面のリサーチを開始したのです。

STORY 10

バンドの解決策

バンドに関する切実な声

1. 海底では温度が低いので、現在(ビニール製)のバンドは硬くなり、折れやすい。
2. 潜水前に腕時計のバンドをきつく締めても、水圧によって海底では緩くなる。

ポリウレタンバンド“ジャバラ”
ポリウレタンバンド“ジャバラ”

・低温で硬くなり、折れやすい塩化ビニールに代わる素材として、当時ようやく他産業の一部で使われ始めた「低温で硬くなりにくい“ポリウレタン”」を時計業界で初めてバンドに採用しました。
・さらに、愛用のカメラにヒントを得て「バンドの一部を折り畳み式カメラのジャバラのような形状にする」というアイデアを思いつき、「伸び縮みするバンド」を実現することができました。

STORY 11

外観についての要望を満たすために・・・

外観に関する切実な声

1. 外国などで、フォーマルな場に出ても恥ずかしくない時計であってほしい。

・最も目に付く外胴の形状・質感・色調と回転べゼルや、リュウズの形状・質感・色調。ガラスとダイヤル針の形状・質感・色調。バンドの形状・質感・色調。それら相互のバランス。そしてこれらが一体となった時の操作性。腕への着け心地。存在感や醸し出す雰囲気。それらは何度も試作を重ねて練り上げたのです。

STORY 12

デザインの取り組み(針とダイヤル/ケース/バンドの問題点・解決策)

問題を解決すべくまとめ上げたイメージスケッチ
問題を解決すべくまとめ上げたイメージスケッチ

ケースの諸問題を解決するために、工夫を重ねた末にひねり出したアイデアが、「ワンピースの内胴に回転べゼルを載せ、それをそっくり外胴でカバーしてしまうケース構造」というものでした。
通常の時計とは全く異なる形状・デザインとなるので、その全体像を諏訪精工舎の関係部門の人たちに理解してもらうために作成したのが左に掲げたイメージスケッチでした。

諏訪精工舎へ送った初期の試作図面の一部
諏訪精工舎へ送った初期の試作図面の一部

右に掲げたのは、ケースの諸問題を解決すべく考案した構造と形状のアイデアを図面化し、技術検討のために、ごく初期の時点で諏訪精工舎に送った試作図面の一部です。この時点ではまだ回転べゼルを抑えるネジリングが外胴の上に別についていますが、後に一体化させます。

STORY 13

プロダイバーの意見に耳を傾けて・・・

試作品が出来ると、実際に潜水に使用して不都合がないかどうか、もっと改良すべき点がないかどうか、大島氏や大島氏の仲間のダイバーに実際に潜水に使用して頂いてその意見を伺い、修正していきました。 また、いろいろな人に試作品を見せて意見を聞きました。 中でも、月刊誌「マリンダイビング」を出版し、水中写真の第一人者であった「水中造形センター」の舘石昭氏の所には足しげく通って意見を聞かせて頂きました。

STORY 14

20件の特許・実用新案・意匠登録

創案したバラせるケースの構造とデザイン/見易いダイヤルと時分秒針のデザイン/伸び縮みするバンドの形状とデザインなど、「ダイバー・プロフェッショナル」にかかわる特許や実用新案・意匠登録は合せて20件にのぼります。

STORY 15

こんなモノ・・・腕時計じゃないよ!

社内に初めてプレゼンテーションしたときの反応は、"なんだ?この黒くて大きなモノは・・・こんなモノ腕時計じゃないよ!"でした。 しかし、クレームから始まったプロジェクトであり、これが技術的に追求した結果たどりついた姿だと言えばそれ以上の反論は出ず、"特殊な時計だからせいぜい話題性喚起に期待して市場に出してみよう・・・"ということになったのです。

STORY 16

そして、ついに発売!

「ダイバー・プロフェッショナル 600」は 1975年6月にデビューしました。小売価格は¥89,000 でした。発売されるや、国内外他社の追随を許さない高い機能・性能と信頼性・耐久性がプロ・ダイバー間で広く認められ、"世界最高のダイバーズウオッチ"との評価を獲得するに至りました。

STORY 17

クオーツ化とともにデイデイト仕様に! ロングセラー商品に

クオーツ化されたダイバー・プロフェッショナル
クオーツ化されたダイバー・プロフェッショナル

1978年6月には Cal.7549 でクオーツ化します。外胴の12時と6時方向に伸ばしていた"裾"を軽量化のために切り詰め、時・分・秒針もさらに見やすく改良しました。内胴・回転べゼル・リユウズ・外胴留めネジは外観に"輝き"と"華"を添えるために金色に近い色調としました。小売価格¥120,000 でした。
1986年3月にムーブメントがCal.7C46 に変る時点で外胴が黒色の高強度セラミックスに変更され、耐水圧が1,000mに強化され、小売価格は¥133,000 となりました。
40数年たった今でも基本的なコンセプトとイメージを変えることなく、最高のダイバーズウオッチとして評価され続けています。

STORY 18

"何があっても、この時計だけは何事もなかったように動き続けるだろう!"

耐久性や耐水性に関する苦情・クレームは、発売以来ほとんどゼロに近い状態でした。
この「・・・動き続けるだろう!」の言葉は、「ダイバー・プロフェッショナル600」を使った人からよく言われた言葉です。 開発者にとっては最高の褒め言葉でした。

開発リーダー・デザイナー 執筆者  田中太郎氏
開発リーダー・デザイナー 執筆者  田中太郎氏

初代ダイバー・プロフェッショナル600のデザインは、お客様の生の声の追求から生まれた“必然的”で“革新的”なデザインでした。 ダイバーズウオッチとしての信頼性、機能、使いやすさ、見易さを追い求めて作られたデザインの各部にはそれぞれ明快な理由が存在しています。
そして、今年(2017年)バーゼルフェアでは、初代の血を引く最新のプロフェッショナル1000が「もっとも美しい顔をもつダイバーズウオッチ」と称賛されました。

初代ダイバー・プロフェッショナル600は最高のダイバーズウオッチと評され、高品質のセイコーというイメージを確立するとともに、その開発手法(最高を目指す、使う人・作る人が一体となったモノづくり)は以降のセイコーの商品開発のスタイルになり、数々のスポーツウオッチを生み出す契機となりました。

ケース裏面に打刻されているマーク
ケース裏面に打刻されているマーク
発売時に時計販売店のショーケースに置かれたPOP
発売時に時計販売店のショーケースに置かれたPOP