クオーツショックにより、スイス時計業界は大きな打撃を受けますが、 その後のスイス時計産業は巻き返しを図ります。
日本時計産業の戦後の復興
戦後、日本の時計産業は欧米に大きく後れを取っていましたが、当時の通産省の主催で1948年(昭和23年)から、時計の精度・止まり等の品質試験の審査をする時計コンクールが開催されます。そうなると、日本の時計業界全体がお互いにしのぎを削り品質向上の競争をする環境が整い始め、1955年(昭和30年)頃には、全体のレベルがかなり向上します。1960年(昭和35年)には、ほとんどの国産時計の性能が世界水準に達し、優秀なものは、時計先進国と肩を並べる水準になりつつありました。
エレクトロニクス時代の幕開け
セイコーは、機械式時計の精度・品質向上のための不断の努力を継続する一方で、アメリカのメーカーにも触発されて、1950年代末から、ぜんまいのかわりに電池を動力にし、トランジスタや水晶にコイルを組み合わせて、より高振動で時間を制御できるエレクトロニクス技術への挑戦を開始します。
トランジスタとは半導体の接合を利用して電気信号の増幅を行う装置で、まずは1960年にトランジスタ振子で精度を上げるトランジスタ掛時計「ソノーラ」を、続く1962年に、それを持ち運びのできる置時計に応用すべく、トランジスタてんぷを利用した「セルスター」を相次いで商品化します。
その一方で、エレクトロニクスの最先端にあった水晶(クオーツ)時計の開発・製造にも力を入れ、1959年から放送局用クオーツ親時計を、1962年から船舶用クオーツ親時計を順次製品化していきます。
また、諏訪精工舎では、1959年に機械式時計以外の新しい時計開発のための「59Aプロジェクト」を発足させ、東京オリンピックに使われた世界初の携帯型の水晶時計クリスタルクロノメーターの開発に繋がりました。また、1963年には、スイス天文台コンクールに初めて小型水晶時計部門での参加を果たします。
東京オリンピックでのクオーツ計時の成功
1964年の東京オリンピックでは、精工舎・第二精工舎・諏訪精工舎がそれぞれ開発を分担して、競技のルールや競技会場に応じて、全部で36機種にわたる最先端の計測装置を開発しました。その中で、陸上や水泳のようにタイムが世界記録として残るものや、自転車・馬術・漕艇・カヌーのように1/100秒単位までの計測が義務づけられていた競技もあったので、それらの競技では、より精度が要求されるクオーツ計測機器の使用を前提に、開発に注力したのです。
結果として、携帯型のクリスタルクロノメーター、世界初の水晶発振式デジタル・ストップクロック、電子計時装置のプリンティングタイマーⅠ・Ⅱ・Ⅲ型や100コマ撮り写真判定装置等のクオーツ計測・電気計時機器を開発して、多くの競技に使用しました。
これらの活躍によって、東京オリンピックは、主たる競技ではクオーツ時計を用いた精度の高い計測を成功させた、史上初めてのオリンピックとなりました。
世界初のクオーツウオッチの発売
1967年のヌーシャテル天文台コンクールにセイコーとスイスのCEH社は、どちらもクオーツ腕時計のプロトタイプを出品し、その後の世界初のクオーツウオッチの製品化を巡って、スイスとセイコーは熾烈な競争を繰り広げていましたが、1969年の12月に、セイコーが世界初のクオーツウオッチ・アストロンを発売します。
翌1970年4月のバーゼルフェアでは、CEH社のラドー、ブローバ、ユニバーサル、オメガなど数社が、アナログクオーツ時計を出展しましたので、まさにタッチの差での勝利でした。
クオーツの普及と価格競争の激化
東京オリンピックの公式時計を計測ミスひとつなくやり遂げたことでブランド価値と知名度が大いに上がり、自動巻メカと防水で大評判のSEIKO 5などの売れ筋ラインがあったことで、世界中に「世界のセイコー」のフレーズと共にセイコーの商品が有名になり、欧米・アジアを中心に、海外での販売代理店・現地法人網が急速に拡大されました。
1971年には、セイコーウオッチの総販売量1400万個のうち輸出が既に半数、1978年には1900万個のうち2/3が輸出で占められるようになりました。
その一方でセイコーは、クオーツ化技術を更に押し進め、1973年には機械部品を一切持たない全電子化技術の6桁表示液晶デジタルウオッチを世界で初めて発売します。これは、秒表示可能な低消費電流の画期的な商品でした。
時計のデジタル化は、アジア・中南米などの新市場の開拓を伴う新たな需要を喚起したと同時に、時計の生産体制の変革や時計産業への、他業種からの参入をもたらしました。
1970年代末から1980年代初め頃には、時計ムーブメントの他社への外販も始まり、香港・台湾・中国勢が時計部品の製造を開始するようになって、量産化によるコストダウンが急速に進みます。これが時計全体の価格レンジに影響を及ぼし、クオーツ・メカを問わず、世界的に時計の価格競争が激しくなりました。
スイス・アメリカ時計産業への打撃
日本の生産全体に占めるクオーツ化の比率は、1979年の時点で、ウオッチが6000万個のうち、アナログ・デジタルほぼ半々で併せて55%程度、クロックは4400万個のうちクオーツが50%で、残りの8割以上も電子化技術(電池式か交流電気式)が占めており、翌1980年、全体の生産数では、ついに時計王国スイスを抜いて世界一となりました。
これらの多くが輸出に充てられた結果、伝統に縛られていた多くのスイス・アメリカの時計ブランド・メーカーは、時計の量産化、クオーツ化への対応が遅れ、壊滅的な打撃を受けます。たとえば、スイスからの時計の輸出は、80年代前半には、過去最高を示した1974年の1/2に減ってしまいました。
アメリカでは、ウォルサムが日本の企業に買収され、スイスでも同時期に起こったスイスフランの高騰、オイルショックによる生産コスト・原材料の上昇、人件費の上昇などによって売上が激減し、多くの時計メーカーが廃業に追い込まれました。
一説によれば、1970年に1600社以上あったスイスの時計企業が1980年代中頃には600社を割り込み、時計産業の就業者数も、1970年の9万人から1984年には3万3千人に激減したと言われています。
特に、スイス・アメリカには従来ロスコフ・ウオッチというピンレバー方式の大衆メカ時計があり、これが時計産業の下支えをしていたのですが、この領域が低価格で精度の良いクオーツウオッチによって壊滅してしまいました。
スイスの時計産業は、もともと水平分業による製造方式を取っており、ブランドや部品ごとに生産規模の小さい時計メーカーが多数存在していました。伝統的な技術をもった独立系の中小規模経営の家族的企業が、それぞれ異なる自社もしくは系列化にあるブランドの部品を製造し、協同組合によって全体の運営がなされていたのです。
70年代終わりでも、リーダーシップを取る企業グループは存在せず、そのために、生産システムとマーケティングの両面で合理的なまとまりを欠き、電子化の先端技術への積極的な対応や、業界全体としての組織的・戦略的な対応が遅れてしまったのです。
少数の日本メーカーが、クオーツ、メカ、その価格帯を問わず、合理的な量産による生産システムと集中したマーケティング戦略によって市場を拡大してきたこと、ドルに対して円は安定していたものの、スイスフランが高騰していた事も、痛手でした。
スイス時計産業の再編とスウォッチの登場
この逆境に対してスイスは新たな組織と戦略で対応します。
もともと提携銀行側でコンサルタントをしていたニコラス・G・ハイエック氏の案で、経営が行き詰まっていた大手2社、オメガ・ティソを主体にしたSSIHと、ロンジン・ラドーを主体にしたASUAGを合併させて、1983年にSMHという新たな組織を設立します。
生産システムの合理的な再構築と、新たなマーケティング戦略の再検討がこの合併の狙いでした。SMHは手始めに、ファッションを切り口にした50フランの安い値段のシーズン使い捨てアナログウオッチ「スウォッチ」による画期的な“スウォッチ戦略”によって、失ったボリュームゾーンを蘇らせるのです。
1983年から販売を開始したスウォッチは、巧みなマーケティングと宣伝販促によって1986年には全世界で累計2300万個、1992年には累計で1億個を達成し、1993年の年間販売数は3000万個にも昇るといわれました。
スウォッチのイノベーションは、単に部品点数の少ない製品の合理的な生産システムによる大量生産・コストダウンのみならず、ファッションを切り口にして、シーズンごとに売り切り、地域性のないグローバル・ブランドのマーケティングをしたことです。全世界のお洒落な国際都市の中心街に、「スウォッチ・ショップ」を作って効果的PRによる大量販売に成功し、安くてもお洒落で付加価値が高いというビジネスモデルを創ったのです。
この量産効果による収益で、工場の再稼働や雇用の再創出を生み出し、スイス時計産業のベースが再興されました。
SMHによる合理的な対抗戦略
もうひとつの改革の柱は、グループ全体をその製造機能やブランドのポジショニングで合理的・効率的に再編して、組織・人員のリストラ・配置換えを行ったことです。
まずは、今までオメガやロンジンなど各ブランドがそれぞれ独自に行っていたムーブメントの製造・組立をすべてETA社(旧エボーシュ社)に集約させる一方、SMHに所属するブランドは全て、ETAからムーブメントを調達するようにしました。
ETAは、ムーブメントの種類も集約して、SMHのブランド間で共通に用いると同時に、グループ以外のスイス・他国の時計メーカーにも積極的に売り込みを計り、集中的に製造することで、コストを下げながら効率的に売上を拡大していきます。
また、傘下ブランドのポジショニングの重複に留意し、選択と集中によって各ブランドのコンセプトの違いをはっきりさせ、相互補完的にリポジショニングしながら、モデル数を絞ることで、生産・マーケティング両面での合理化を図りました。
たとえばオメガはモデル数を極端に絞って、ブランドの個性や付加価値を際立たせながら、宣伝モデルは世界共通にしてイメージの統一性を図るなど、スウォッチで導入したグローバル・ブランドとしてのマーケティング戦略を採用しました。
オメガには、グループ内の基幹ブランドとして、特に資源を集中投下しました。 付加価値の高い機械式ムーブメントや優れた外装デザインに集約させ、ブランドのもつ歴史や遺産に焦点をあてたり、有名なブランド・アンバサダーを使った巧みな宣伝販促を行ったのです。新たな大規模グループによる、生産システムとブランド・マーケティング両面での巧みな「選択と集中」戦略は、スイスの提携銀行グループの信用を勝ち取り、多大な融資を得て、業界全体を段階的に復興させていったのです。
その後、SMHは部品の製造下請企業を次々に買収する一方、中国・タイなどでの生産の国際分業などによって、より合理的な生産システムをグローバルで確立していきます。
一方で、世界各地でブランドごとに分かれていた販売代理店・チャネルを統合し、複数ブランドのマーケティング・宣伝・IT・財務・物流・アフターセールスサービス等を一手に引き受ける1国1代理店・現地法人網を築き、グローバルなブランド戦略を推進していきます。
1985年のプラザ合意以降、急激な円高ドル安が進む中、日本メーカーが急速に競争力を失っていった一方で、スイスフランは好転していたことで、スイスメーカーに為替相場の追い風が吹いた事も、復興推進の重要な要因となりました。
スイス機械式時計の復活
機械式時計は、高精度の高級品でも1日に数秒程度の進み遅れの誤差が生じるために、時刻を知るための道具として精度の優れたクオーツ時計との競争に一旦は敗れ去りましたが、逆に機械式ならでは味わいを生かした嗜好品として再評価されていきます。それぞれのブランドが持つ長い歴史と伝統によるステータス性、部品の手造り加工や磨き、彫刻、宝石加工などによって職人が生み出す芸術的な匠の技術、機械式ムーブメントならではの精緻で複雑な構造と機能や、ムーブメントに新しい機構や素材等の先端技術を導入した高付加価値性などが、宣伝・PRによる効果的なイメージ訴求によって、高価格帯の領域におけるラグジュアリー時計ブランドビジネスとして、確立していったのです。
安定した欧米経済や、中国を初めとしたBRICS諸国の台頭による新興国での旺盛な需要のお蔭もあって、世界的に付加価値の高い機械式時計の売上は年々増加し、1991年から2011年までの20年間で、スイス時計の輸出総額は約4倍にも拡大しました。
大手時計グループの再編
こういった機械式時計のラグジュアリー化という時計市場の大幅な拡大を背景に、1995年以降大手グループによるラグジャリー領域の時計ブランドの買収・再編が一段と加速します。
SMHは1992年に世界最古の時計ブランドといわれているブランパンを買収し、1998年にスウオッチ・グループと社名を変更した以降は、ブレゲ、ジャケ・ドロー、グラスヒュッテ・オリジナルなどの高級ブランドを買収します。
また、カルティエ、モンブラン、たばこブランドなどを有していたヴァンドームグループは1988年にリシュモングループという社名のもと再編し、以降ピアジェ、ヴァシュロン・コンスタンタン、パネライ、IWC、ジャガー・ルクルト、ランゲ&ゾーネなどの時計・宝飾ブランドを相次いで買収します。
世界最大の高級品グループLVMHも1999年以降時計製造販売に投資を始め、ゼニス、タグ・ホイヤー、ウブロ、ブルガリなどを買収し、多くの有名高級ブランドが、大資本グループの傘下に再編されていきました。
こういった2000年前後の大手ブランドのグループ化は、時計流通網の垂直統合による再編をも促しました。この狙いは、自ら小売販売まですることで、顧客との接点である販売の現場の質を向上させ、自ら小売による大きな収益を吸収することです。
大手グループは、従来からの取扱い小売店に対しては、取扱いブランドごとの仕入・販売ノルマや陳列スペース、陳列方法などの厳しい約束事を課し、ブランドイメージに沿った店だけに絞りながら、高級化イメージを持つ直営のブティックの出店を増やしていきます。
こうして特にラグジャリー領域の時計ビジネスは、製造から顧客との接点である店頭まで、全てのバリューチェーンをコントロールする競争に変わってきています。
セイコーによるクオーツのデファクト化
クオーツウオッチを世界で初めて開発したセイコーは、クオーツ技術をデファクト・スタンダード化するために、パテントを一般公開し、その狙い通り、各社はこぞってその技術を使ってクオーツウオッチに参入しました。その後、国内の同業他社に続いて汎用クオーツムーブメントの外販ビジネスへの参入を開始したこともあり、クオーツウオッチは全世界で爆発的に普及し、世界中の人々が腕につけることで、いつでも、どんな場所でも常に正確な時を知ることができるようになりました。
クオーツウオッチが汎用化し価格が急落したことで、スイスやアメリカの時計業界は大きな打撃を受けました。しかし同時に、世界中の人に正しい時を安価に供給するという大きな貢献を果たしたことも事実です。
また、セイコーはクオーツに先鞭をつけた業界のリーダーとして、電子時計技術の進化・発展を願い、高精度化ツインクオーツやテレビ付・録音機付・コンピューター付などの多機能化、あるいは電池交換のいらないキネティックやサーミックなどの付加価値のあるクオーツの開発投入を常に継続させてきました。
ちなみに、セイコーが開発し汎用化させたクオーツ技術は、音叉型水晶振動子、CMOS-IC、オープン型ステップモーター、加えてデジタルは7セグメント方式による液晶表示など、50年近く経過した現在でも継続使用されている、まさに画期的なものでした。
特に小型で耐衝撃性に優れた、世界初の音叉型水晶振動子は、幅広い領域で日常的に使用されています。PC、携帯電話、デジタルカメラなどのIT機器、自動車などの工業製品、テレビの基幹通信設備などに搭載され、正確な時刻をカウントするベースとなったり、ネットワーク信号の基準となったり、速度などの変化や動きを捉えるセンサーとして活用されたりと、水晶デバイスの基幹部品として広範囲にわたって活躍しています。現在世界の時刻の基準となっている高周波・高精度のセシウム原子時計も、その発振周波数を常に調整・修正しているのは水晶振動子の働きなのです。
このように、クオーツの技術は、単に時計に限らず、家庭のIT機器からグローバルに広がるネットワーク社会に至るまで、コンピューター時代の生活を陰で支える基礎技術として、今でも大いに役立っているのです。
参考文献
「SEIKO時計の戦後史」 セイコー時計資料館
「日本の時計産業概史」 日本時計協会HP
「セイコーエプソンHP技術・イノベーション コア技術」セイコーエプソンHP
「機械式時計」という名のラグジュアリー戦略 ピエール・イヴ・ドンゼ 世界文化社
「スイス時計産業の世界戦略」 JETROジュネーブ事務所HP
「ラグジュアリー時計ブランドのマネジメント」ルアナ・カルカノ、カルロ・チェッピィ 角川学芸出版