服部金太郎は、1860(万延元)年10月9日、現在の銀座四丁目角近くの京橋采女町に生まれる。父は古物商を営んでおり、8才から寺子屋(青雲堂)で学ぶも、商売に志をたてた金太郎は、11歳の春、京橋の洋品雑貨問屋辻屋に奉公に出る。辻屋は直輸入を手掛ける洋品雑貨業界の先駆者であった。
そして13歳の時、辻屋近くの小林時計店(江戸時代からの時計業の老舗店)の様子を見て、時計屋になろうと決心する。
「雨天の日は客足が少ない。そんな時でも時計店の店員は修理にはげんでいる。販売だけでなく修理でも利益が得られ、大切な<時>を無為にすごさなくともよい。まず、時計の修繕業からこつこつ始めて、開業資金を貯めることも不可能ではない。そうだ、時計屋になろう」

服部金太郎は店主の坂田の窮状に自分が貯めてきた貯金を差し出した。当時の美談として関係者の間で語り継がれた。               (『修養全集 第10巻立志奮闘物語』)
服部金太郎は店主の坂田の窮状に自分が貯めてきた貯金を差し出した。当時の美談として関係者の間で語り継がれた。               (『修養全集 第10巻立志奮闘物語』)

時計商になると決めた金太郎は、日本橋の亀田時計店に移り、2年後、店の都合により上野の坂田時計店に入店し、時計の修理や販売を学ぶ。ところが、店主が他の事業に失敗し、店が倒産してしまう。店を去るにあたり金太郎は、同店在店中の貯蓄をこれまでに受けた恩への返礼として主人に差し出した。店主は感激し、このことは後に美談として残ることになる。

自宅にもどった金太郎は、1877(明治10)年、「服部時計修繕所」の看板をかかげ、中古時計の修理・販売を始める。これがのちの服部時計店の前身である。同時に、京橋にある「技術にかけては名人」と謳われた桜井清次郎の店で働き、懸命に時計技術や商売を学んだ。