通貨収縮による不況時代にあった1881(明治14)年、金太郎は自宅に近い京橋采女町に「服部時計店」を創業する。金太郎21才の時であった。
このころは国産時計の黎明期で、東京・大阪・名古屋などの少数の先駆者が欧米製品をモデルに懐中時計の研究・試作をしていた時期である。従って、時計卸商品は全て横浜や神戸など開港地区に開設された外国商館から仕入れなければならなかった。
商館の取引は30日延し(一ヶ月以内に代金を決済)の約定が定められていたが、当時は江戸時代以来の「盆暮れに清算する」古い商習慣が残っていて、約定を守らない商店も多く、外国商館からは不評をかっていた。
そんな中、金太郎は内外人の区別なく、どんなに困難な時でも、取引の約定を守ったことで、商館・販売店の間で服部時計店の評判が高まった。

創業者 服部金太郎の精神 “(どんなに困難な時でも)必ず約束を守る”

初代時計塔
初代時計塔

特に外国商館は、服部時計店に優先的に新しいモデルを卸してくれるようになり、比較的短い期間にめざましい躍進をとげ、1886(明治19)年の好景気時から、金太郎は舶来時計の卸・販売に集中していくことになる。
そして、創業後6年目の1887(明治20)年には、日本商業の中心地銀座の表通りへの進出を果たし、1895(明治28)年には銀座四丁目の角地(現在の和光)を購入し、時計台を設置した後に移転した。総高さは16mだった。
このころの銀座の街頭は文明開化を象徴する時代の先端をいく街であった。

服部時計店創業10年目の1891(明治24)年、金太郎は「東京時計商工業組合幹事」「東京商業会議所会員」に推挙され、31才にして業界の重要な位置をしめることになる。