吉川 鶴彦
吉川 鶴彦

景気好転の兆しがみえた1892(明治25)年、時計の国産化という目標を抱いていた金太郎は、舶来時計の輸入販売で蓄積した資金を元手に、製造に乗り出す。
金太郎は天才技術者と云われた吉川鶴彦と名古屋の掛時計工場を視察後まもなく、本所区石原町(現在の墨田区)の遊休地(硝石工場)を仮工場として、ボンボン時計と呼ばれた掛時計の製造を開始する。
従業員10余名のささやかな精工舎の誕生である。金太郎31才 吉川28才であった。金太郎と技師長となった吉川は共に時計の国産化に邁進することを誓った。翌26年の初夏には柳島町へ工場を移転した。

金太郎は次の固い決意をもって精工舎を創業する。

1.「精巧な時計をつくる」

精工舎設立当時の掛時計
精工舎設立当時の掛時計

「精巧な製品」により、欧米に負けない時計事業を日本に興すという強い覚悟を「精工舎」の会社名に込めた。
また、「良品はかならず顧客の愛顧を得る」という信念のもと、「品質第一」「顧客第一」とするモノ作りに励んだ。

創業者 服部金太郎の精神 “良品は必ず需要者の愛顧を得る(精良な商品は繁栄の基礎)”

2.「人材を育成する」

金太郎は少年時代から向学心が強かっただけに、年少従業員の教育に熱心であった。精工舎創業まもなく、工場内に寄宿舎の制度をもうけ、熟練工の養成に着手する。1900(明治33)年には舎内に夜学制度をもうけ、国語・数学・習字を学ばせている。また、1918(大正7)年頃には服部時計店本店内に旧制中学校に近い内容の夜学制度を設けている。さらに、1927(昭和2)年には大阪支店内に服部商業学校(4年制・夜学)を創立している。

金太郎談(雑誌「活動の日本」タイトル「工業発展の一手段」1905(明治38)年発行)

「我が国の機械工業品の輸出が概して低調であり、とりわけ時計産業が欧米に立ち遅れている原因は、1. 機械設備の立ち遅れ 2. 職工の機械的知識の欠如にある・・・(中略)・・・発展していくためには、簡易工業学校(時計学校)が必要である」

3.「ブランドを大事にする」

創業時から会社のトレードマークを創案するなど、金太郎は「精良な製品を作る」だけでなく、現在でいう「ブランディング」「マーケティング」の重要性を強く意識していた。その精神は、1924(大正13)年、SEIKOブランドの立ち上げや日本初のラジオ・テレビのCM放送、1964(昭和39)年の東京オリンピック公式計時などに引き継がれていくこととなる。

4.「世界から学び、世界を市場とする」

金太郎は精工舎創業当初から目を世界に向けていた。国産時計産業を興すには欧米の時計先進国から学び、市場を世界に求めようとする強い意識を持っていた。
3年後の1895(明治28)年には輸出を開始する。また、米国の最新鋭の製造機械設備の導入には資金を惜しまなかった。

このような金太郎の経営姿勢が服部時計店と精工舎を大きく飛躍・発展させることになる。