47歳の頃の金太郎(1907年)
47歳の頃の金太郎(1907年)

精工舎の創業は日本の中で決して早くはない。国産時計産業の勃興は1877(明治10)年頃であり、15年ほど後に精工舎を創業している。しかし、創業20年後の1911(明治44)年には国産時計の約60%を精工舎の時計が占めるまでになる。そのめざましい成長の背景には、上記の経営姿勢と合わせ、金太郎の優れた先見性・洞察力と強いリーダシップがあった。

1.最新鋭の工場つくり

1920年当時 精工舎全景
1920年当時 精工舎全景

金太郎は国産時計産業の弱点を機械設備の遅れに課題があるとみていた。創業時は工場の動力は人力であったが、翌年には5馬力の蒸気機関を導入。その後25馬力にアップし、1900(明治33)年には半年に亘る単身欧米視察で買い付けた60馬力の蒸気機関の設置、1906(明治39)年の二度目の欧米視察で買い付けた140馬力の蒸気機関を導入、そして最先端の技術習得と工作機械の導入など、積極果敢に最新鋭工場づくりにむけて邁進する。

また、スイスや国産メーカーの主流であった「水平分業生産方式」ではなく、部品から組立まで一貫して製造する「垂直統合生産方式」を志向し、「精巧で品質の高い製品づくり」と「開発期間の短縮」に取り組んだ。

さらに、工作機械類の内作化に取り組み、量産のネックになっていた部品(カナ)加工の生産性を飛躍的に向上させ、長年赤字だった懐中時計を一気に黒字化するほどの革新をもたらす「ピニオン自動旋盤」を自社開発する。
最新鋭工場への取り組みは、「量産性の向上」に留まらず、「品質の向上」に大きく貢献し、事業の飛躍・成長の原動力となっていく。

2.スピードある商品開発

最初の懐中時計「タイムキーパー」
最初の懐中時計「タイムキーパー」

金太郎は「精巧な良品」で欧米先進国に早く追いつこうとし、1892(明治25)年の掛時計の商品化を皮切りに、次々と果敢に商品開発に取り組む。創業3年後の1895(明治28)年には懐中時計(タイムキーパー)、7年後の1899(明治32)年には目覚時計、1902(明治35)年には懐中時計「エキセレント」を開発、1909(明治42)年には大衆向け懐中時計「エンパイヤ」、そして1913(大正2)年には国産初の腕時計「ローレル」と矢継ぎ早に商品化する。
金太郎は目覚時計のケースにニッケルメッキを施し錆びにくくし、当時世界を席巻したドイツ製(鉄製ケース)の目覚時計を日本や中国(清)市場から駆逐する。
また、大衆向け懐中時計「エンパイヤ」(ピニオン自動旋盤を駆使)は輸入懐中時計に比べて優れているとの評判をとり、国内では欧米懐中時計を押さえ、全国的に普及し、海外にも大量に輸出された。エンパイヤは改良を加えられ、1934(昭和9)年までの26年間生産した名機となる。

1913年 ローレル
1913年 ローレル

国産初の腕時計「ローレル」の登場は、世界で腕時計の量産が始まるのは1910年頃であることを考慮すると、大きく立ち遅れていた国産時計産業にとって、欧米先進国に近づいてきたと実感できた「時代を画する製品」である。また、腕時計の普及は1914(大正3)年に勃発した第一次世界大戦が契機になった事実をみると、大戦勃発一年前の発売のタイミングは絶妙であり、金太郎の先見性とスピード経営の一端が垣間見られる。

3.第一次大戦 空前の好景気 腕時計の普及

第一次世界大戦勃発により、輸出が急増し、空前の好景気が到来する。時計業界もドイツ製の輸出がとまり、精工舎はイギリスから約60万個、フランスから約30万個という大量の目覚時計を受注する。
海外需要が急増するも、大戦中は輸入材料が途絶えてしまうが、金太郎は大戦勃発後まもなく大量の材料を輸入し、需要増に対応することができた。他の国産メーカーは材料不足に陥り、飛躍の大きなチャンスを逃すことになる。
こうして、アジア市場で欧米メーカーと覇を争うまでになり、金太郎は「東洋の時計王」と呼ばれる。