大震災で溶解した懐中時計
大震災で溶解した懐中時計

1923(大正12)年9月、創業以来の非常事態にみまわれる。関東大震災である。精工舎は給水鉄塔をただ一つ残して全焼し、当時本店ビル建築のため仮住まいしていた営業所や自邸も焼失するなど、甚大な被害を受ける。
すでに62歳となった金太郎は一旦は落胆するも、四日後には精工舎の再開を宣言し、復興を開始する。

震災後の修理品返済についての広告
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営業面(服部時計店)は、翌10月中旬に輸入時計の入荷と卸売りを開始、11月には仮営業所を完成させ、本格的に営業を始める。
また、震災前に顧客から修理のため預かっていた時計約1500個が焼失してしまうが、金太郎は新聞広告を出し、申し出た顧客に同程度の新品をもって返済し、大きな話題となる。

生産面(精工舎)は、翌10月1日、復興の第一歩を踏み出す。10月末には仮工場一棟が完成する。翌1924(大正13)年にはさらに数棟の仮工場が建設される。同年3月に掛時計を出荷、4月に懐中時計ケース、9月には目覚時計が出荷された。
非常に早いスピードで復興が可能になったのは、関係者の努力によるところが大きいが、火をあびた工作機械の6割~7割程度が修理することで使用が可能だったことも要因の一つであった。

そして、12月には新しいブランドSEIKOの腕時計の生産が開始される。この腕時計の試作品は大震災前日に完成しており、焼失を逃れたことが幸いしている。苦難を乗り越え、新たにスタートする時期に、新しいブランドが誕生したのである。この試作品が震災を生き延びたことが、精工舎の復興を促進した、このSEIKO腕時計の誕生を機に、製造設備や工程が一層近代化され、以降の発展・躍進の礎となった。