1930年 精工舎
1930年 精工舎
1932年 服部時計店
1932年 服部時計店

精工舎の復興は順調にすすみ、1932(昭和7)年には服部時計店本店が新築落成する。銀座のシンボル、現在の時計塔の完成である。大震災以来、工場復興から着手し、ようやく時計塔をもつ本店が復活した。

しかし、翌1933(昭和8)年、金太郎は病に倒れる。
1934(昭和9)年、報公的精神が人一倍強く、各種の社会事業への寄付を惜しまず、晩年には私財を投じて学術奨励の財団法人設立(服部報公会)なども行った事業家 服部金太郎は、家族にみとられながら73歳でその生涯を閉じた。

晩年の服部金太郎
晩年の服部金太郎

時計事業を世に残すという大きな目的を達するまでには数々の困難があった。まれにみる強固な意志と、なみなみならぬ忍耐力をそなえ、常に一歩先きを、急がず休まず邁進し続けた金太郎。その精神は、「世界の時計セイコー」のキャッチフレーズ、1964(昭和39)年の東京オリンピック公式計時担当、スイス天文台コンクールでの上位独占、さらには、現在の時計の世界標準となっている世界初の水晶腕時計「クオーツアストロン」の発売、2012(平成24)年の世界初の「GPSソーラーアストロン」に脈々と引き継がれている。