そもそも日本の時計塔の始まりは?
機械式時計の始まりは1300年代に作られたキリスト教修道院の塔時計と言われており、現存している最古の機械式時計はソールズベリー大聖堂の塔時計(1386年)とされています。
日本で最初に作られた塔時計も実はキリスト教徒によるもので、1603(慶長8)年に長崎のキリシタン文化の中心地であった“岬の教会(被昇天のサンタマリア教会)”に建てられました。徳川幕府の禁教令により破壊され、現在目にすることは叶いませんが、記録によると時計の文字板には西洋式のローマ数字による目盛と干支による目盛、陰陽両式のカレンダーの表示があり、文字板を見ながら三つの鐘が奏でるチャイムを楽しむために市民が毎時間見学に訪れたそうです。
この塔時計の製作者はイタリア・ルネサンス派の画家であるジョワンニ・ニコラオ神父と言われています。画才のみならず工芸の才能に恵まれたニコラオは、セミナリヨやコレジヨ(聖職者育成教育機関)で絵画だけでなく時計の製作技術も教えていました。後に和時計へと発展する日本の時計製作技術の源流はセミナリヨやコレジヨにおけるニコラオの教育にあったのでは、と専門家は指摘しています。
時計塔は文明開化のシンボルへ
キリスト教の象徴であった時計塔は禁教令により姿を消しましたが、明治以降には欧米化・近代化の象徴として再び登場します。明治政府が西洋建築を積極的に導入したことにより、明治の東京には30を超える数の時計塔が建てられました。明治期の塔時計の機械体は横浜や神戸にある外国商館から輸入されたものであり、東京市中に響き渡る鐘の音はまさしく“文明開化の音”であったのでしょう。時計塔は時刻を知るという役割以上に目新しい外観から多くの市民の耳目を集め、「虎の門工部大学校時計塔」(明治6年竣工)や「四日市駅逓寮時計塔」(明治7年竣工)のように新東京名所の一つとして錦絵に描かれるものもありました。
明治期に建てられた時計塔は学校や兵舎などの官庁施設だけではなく、殆どは時計店によるものでした。特に「八官町の大時計」と呼ばれていた「小林時計店(※1)本店時計塔」(明治9年竣工)、同じく「外神田の大時計」と呼ばれていた「京屋時計店本店時計塔」(明治9年頃竣工)は東京名物として東京市民に親しまれていました。
※1 服部時計店の創業者・服部金太郎は京橋区八官町の洋品雑貨問屋辻屋に丁稚奉公していた際に、近所にあった小林時計店の様子を見て時計商になる志をかためたと伝えられています。
大きく目立つ時計塔は人目を引き“時計屋”の看板として何よりもわかりやすく、また最先端の輸入時計を扱う花形商売の時計店にとって文明開化の象徴の時計塔は洗練されたハイカラなイメージを伝える恰好の媒体であったのか、個性を競うように街のあちらこちらに建てられていきます。
服部時計店も1894(明治27)年に銀座四丁目にあった朝野新聞社の社屋を買収、改築して初代時計塔を設置しました。3階建の建物でしたが、4階は動力のための重錘が垂れ下がるためのスペースとして、5階は時計を設置する場所として建て増しします。さらにその上に30分毎に時報を打つ鐘が置かれ、総高は50尺(約15.15m)と当時としては破格の高層建築でした。明治・大正と27年にわたり銀座の人々に愛された初代時計塔ですが、1921(大正10)年に改築のため取り壊されます。(※2)
その他の明治期に建てられた東京の時計塔も震災や戦災により殆どが姿を消していきました。
※2 1920(大正9)年に京橋区銀座2丁目に仮営業所を建設し移転し営業します。仮営業所も関東大震災で全焼しましたが、1923(大正12)年11月末には再建を果たし営業を再開します。
2代目時計塔の誕生
1923(大正12)年9月1日、初代時計塔の解体を終え、地下1階部分の土を取り除き地上部分の鉄骨一部を現場に運び込んだ矢先、関東大震災が起こります。建設計画は中止となり、新たに建設計画が再開されたのは1929(昭和4)年も末になってから、建設作業は1930(昭和5)年6月11日からスタートします。施工は清水組(現・清水建設株式会社)、設計は渡辺仁建築公務所が担当しました。渡辺仁は、「ホテル・ニューグランド本館」(1927年)やGHQ本部が置かれた「第一生命館」(1938年)、初期モダニズム建築の傑作「原邦造邸(旧・原美術館)」(1938年)など様々な様式の作品を残している、近代日本を代表する建築家の1人です。
当時の服部時計店図案部部長の提案により、建物はネオ・ルネッサンス様式が採用されましたが、“世界にふたつとない時計塔にしたい”という意向の下、全体計画の要となる時計塔のデザインは最後まで決まらず、着工1年後まで決定が延ばされました。時計塔の設計を担当した渡部光雄氏(元・渡辺仁建築公務所)は図面を何枚も描き、塔の模型をつくっては建物の模型にのせるという作業を何度も繰り返しノイローゼ状態に陥ってしまい、寝るときにも枕元にスケッチブックを置いていたと回想しています。その苦労の甲斐あってか、ネオ・ルネッサンス様式の建物と調和した「世界にふたつとない時計塔」が銀座の地に誕生しました。1932(昭和7)年6月、服部時計店は再び銀座四丁目で営業を開始します。
和光の時計塔のあゆみ
1932(昭和7)年から変わらぬ姿で銀座の街を見守っている和光の時計塔(2代目時計塔)ですが、時計の精度は振り子式からクオーツ、電波修正、GPSによる時刻修正へと向上し、正確な時刻を私たちに伝えています。1966(昭和41)年からはセイコー製の時計に変わり、現在もセイコータイムクリエーション株式会社が時計の管理や点検を行っています。
初代時計塔
1894(明治27)年 初代時計塔完成
9月
服部時計店創業者・服部金太郎が朝野新聞社屋を買い取る。
アメリカで耐震建築を学んだ建築家・伊藤為吉に増改築を委嘱。
12月
増改築工事が完了。
時計機械体の構造 |
精度 |
動力 |
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・横浜の外国商館(コロン商会)から輸入されたスイス製。 ・動力部は重錘式。時計台下の機械室には、時計用と鳴鐘用の2つの大きな錘(高さ八寸径六寸の円筒形)が下がっており、巻き上げると1週間稼動した。 ・塔内に取り付けられた鐘(丈約4尺)は時打ちだけでなく30分毎に1打ずつ鳴り時を知らせていた。 ・文字板の目盛はローマ数字。現在と同じく四方に文字板があった。 |
1895(明治28)年 営業開始
1月
木挽町5丁目(現在の銀座6丁目)より移転し服部時計店として営業を開始。
木挽町店は支店となる。
1921(大正10)年 初代時計塔解体
好況期に入り改築の機運が高まる。ビルへの建替えのため解体される。
・初代時計塔の時計機械部分は一度精工舎へ預けられたが1923(大正12)年服部時計店大阪店新築の際に移送され、1945(昭和20)年の戦火で焼失するまで使用された。
1923(大正12)年 関東大震災
建設計画は中止に。
1929(昭和4)年 建設再開
2代目時計塔―振り子式
1932(昭和7)年 服部時計店本社ビル竣工
6月10日
2代目時計塔落成式を行う。
6月12日
服部時計店開店
時計機械体の構造 |
精度 |
動力 |
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・ドイツ製。動力は重錘式で錘が付いたチェーンを1/4馬力のモーターで巻き上げる。 ・分針は30秒ずつ動く1/2ステップ運針。熟練技術者が毎日見回りわずかな進み遅れもその都度調整していたため、1分とずれることはなかったと言われている。 ・文字板は直径2.4mでほぼ正確に東西南北を向いている。分針は1.17m、時針は0.75mもあった。2本の針を支え、7階屋上の風圧に耐えるためには最低24mmの厚みのガラスが必要とされ、ベルギーから取り寄せている。 ・鐘は時打ちのみ。 |
1945(昭和20)年 空襲、終戦そして接収へ
1月27日
銀座地区への空襲
幸いにも建物に被害はなかったが爆風により文字板の3面が割れる。
8月
終戦
10月
P.X.(Post Exchange)として接収
1947(昭和22)年 和光創立
服部時計店の小売部門を継承、仮店舗にて営業開始。
1952(昭和27)年 和光本社ビルの営業再開
4月
接収解除
12月
和光本社ビルに移転オープン
1954(昭和29)年 毎時のチャイム開始
・時打ちだけだったが、6月10日 時の記念日よりウェストミンスター式のチャイムの音が取り入れられる。
電気時計の音を円盤とパイプでできた発音器を使って鳴らしていた。
2代目時計塔―クオーツからGPS時刻修正へ
1966(昭和41)年 セイコー製クオーツ親時計の導入
時計機械体の構造 |
精度 |
動力 |
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・セイコー製クオーツ方式へ変わる。地下2階に設置しているクオーツの親時計の送る信号によって塔内のモーターが動き、時を刻む。モーターにギアをかませており、四面の時計の針が同時に刻むようにしている。 |
1974(昭和49)年 時計塔改修工事
・親時計を高精度なクオーツへ取り替える。
・チャイムと時報をテープに録音して流すようになる。
1983(昭和58)年 年明けのチャイム開始
1992(平成4)年 2代目時計塔60周年
時計機械体の構造 |
精度 |
動力 |
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・親時計をさらに高精度なクオーツへ。「短波JJY」による時刻修正を行う。 ・チャイムと時報はCDを使った音響装置へ変わる。 |
2002(平成14)年 テレフォンJJY方式の導入
時計機械体の構造 |
精度 |
動力 |
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・以前利用していた短波JJYの停止により、電話回線による時刻供給システム「テレフォンJJY」方式による自動時刻修正機能に変更となる。「テレフォンJJY」は一般的な電波時計に使用する「長波JJY」と違い気象状況に影響を受けず電波の届かない建物内や地下などでも時刻取得が可能。 |
2004(平成16)年 GPS電波修正方式の導入
時計機械体の構造 |
精度 |
動力 |
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・GPS電波による時刻修正システムを導入する。停電などの不測の事態が起こっても時計が動き続けるようにテレホンJJYで時刻修正を行う親時計と、GPS電波で時刻修正を行う親時計の2台体制でバックアップ機能が強化された。 ・時針、分針を交換。 |
2008(平成20)年 修復工事(約300日間閉館)
2009(平成21)年 経済産業省により「近代化産業遺産」認定
2017(平成29)年 和光創立70周年
銀座の“顔”の秘密
内部構造だけではなく、昼夜問わず美しく、見やすい時計塔の文字板にも沢山の工夫が隠されています。和光の時計塔は現在もガラス製の文字板が使用されています。表面はインデックスの刻印に墨入れを施しており、裏面は白くペイントされていて、夜間は内部から照明を当てています。
2004(平成16)年には針を交換し、補強しています。針の表面にある穴のように見えるものは、補強の板を留めているリベット(接合部品)の頭部です。
また針は “しっぽ”(バランサーの役割をする尾の部分)がないデザインのため、代わりに内側に錘をつけてバランスをとっています。
和光の屋上は通常立ち入ることができず時計塔を間近に見ることは難しいですが、セイコーミュージアムでは和光の文字板の原寸大レプリカがご覧いただけます。ミュージアム訪問の折には、文字板や針がどれくらいの大きさなのか、ぜひご自身の目で確かめてみて下さい。
おわりに
以上、日本における時計塔の歴史、和光の時計塔のあゆみをご紹介しました。
和光の時計塔は竣工当初から万全の保守体制の下、正確な時を伝えてきました。一般的な設備時計は年1回の頻度で定期点検を行いますが、和光の時計塔は現在も1ヶ月に1回必ず定期点検を行っています。
歴代の技術者の熱意と愛情によって支えられてきた和光の時計塔は2017(平成29)年で竣工から85年を迎えます。和光の時計塔は伝統と革新が息づく“銀座のシンボル”として、これからも正確な時を刻み続けていきます。
取材協力
セイコータイムクリエーション株式会社(タイムシステム・FA事業)
参考文献
・吉岡弥吉著『日本キリシタン殉教史』時事通信社
・平野光雄著『明治・東京時計塔記』明啓社
・上野秀恒編『街に生きる時計たち 上巻〔東京編〕』クロック文化研究所
・株式会社LIXIL『INAX REPORT No.183』2010年6月
・株式会社和光社内報『時計塔』
・株式会社和光『時計塔の想い出』(時計塔50年を記念して刊行)
・株式会社和光『銀座のシンボル 和光の時計塔』
・読売新聞都民版「銀座ひとがたり(3)」2000年1月4日
・平野光雄著『精工舎史話』精工舎