大航海時代の始まりと覇権を巡る海戦の拡大

カンティーノ平面天球図(1502)
カンティーノ平面天球図(1502)

15世紀半ば、長い間イスラムの圧迫を受けていたポルトガルとスペイン両国では民族主義が沸騰し、後退するイスラム勢力を追うように、国王を中核として、交易ルートの確保と領土の拡大を求めて、アフリカ・アジア大陸への大航海を始めます。

スペインの命を受け、1492年アメリカ新大陸(西インド諸島)を発見したジェノヴァの商人コロンブス、1498年インドへの新航路を発見したヴァスコ・ダ・ガマや、1522年に世界周航をしたマゼランは有名です。その後、17世紀になると、イギリス、スペインから独立したオランダ、そしてフランスも、金・銀、食糧・香料、絹・綿・茶など交易による莫大な富を求めて、新しい航海技術や地図を使って新たな領土開拓に参入します。
その結果、17世紀末までには一部の不毛地帯を除いた世界中の地域がこれらヨーロッパの国々によって発見され支配されていきました。
17世紀初めから18世紀中頃の時代を、経済史上重商主義時代と呼んでいますが、これらの国の間では、周辺諸国も巻き込んだ、世界商業の覇権、植民地を獲得するための戦争、海戦が頻繁に行われていたのです。

世界の海上制覇の決め手とは?

海を支配するものが世界を支配するという構図の中で、各国は軍事力として強力な海軍を保有し競争しますが、各国とも海上制覇にとってある意味決め手となる重要な課題がありました。それは、船の位置を知るための正確な経度の測定です。
正確に経度を測定できるマリンクロノメーターが出来るまで、実は軍艦が敵以上に怖かったのは、座礁や衝突のような海難事故、長期間の漂流による餓死や疫病で、これらが、今日では考えられないくらい頻繁に起こっていたのです。

フェリペ3世
フェリペ3世

スペインのフェリぺ3世は、既に1598年に経度測定法の発見者に多額の報奨金や終身年金を出す事を発表し、17世紀初頭オランダやベネチアもこれに倣います。

その後、1707年イギリス地中海艦隊の軍艦4隻が、英仏海峡を通過中嵐の中で座礁して沈没、二千人もの乗員が死亡する大参事が起こります。スペイン王位継承戦争のさなか、フランス、スペインと世界の覇権を争っていたイギリス海軍は、この史上最大の海難事故の原因を、正確な経度測定が出来なかった事と結論づけたのです。
この事件を契機として、1714年イギリス政府は、いわゆる「経度法」を公布し、正確なクロノメーターの開発に2万ポンドの賞金を出します。そして、フランスも翌年これに続きます。

秒単位の精度の追及をした多くの天才科学者

多額の懸賞金を出す各国のこうした法令は、科学的研究ブームを巻き起こし、当時の世界的な多くの天才科学者、ガリレオ、ニュートン、ハレー、クリスチャン・ホイヘンス、ライプニッツ、ロバート・フックなどが船での経度測定の方法の解明を試みますが、いずれも失敗に終わります。
たとえば、イギリスの経度法の基準は、6週間の航海後で経度誤差0.5度(約56km)の範囲内ですが、このためには、1日3秒未満の精度を持つ正確な時計が必要となります。当時は安定した陸上でさえ1日数分程度ずれる時計が当たり前だった時代であり、揺れが激しく、赤道から北極・南極近くの温度変化の非常に激しい悪条件の重なる海上で、これを達成するのは、とてつもない難題だったのです。

クリスチャン・ホイヘンス

グリニッジ天文台
グリニッジ天文台

この難題解決のために、船の推進速度を測り、その移動距離で経度を求める方法が編み出されましたが、海流や気象条件で誤差も大きく、実用的ではありませんでした。
2地点の時差を測定して経度を求めるために、日食や月食、あるいは土星の衛星の食を求める方法なども検討されましたが、揺れる船上で食の姿を正確に捉えるのは不可能でした。
また、月距法といって、月と固定した星との距離を測る方法での天文学からのアプローチも多くなされ、1670年代には、グリニッジやパリに航海上の覇権をかけて天文台が設立されます。これによって、天文学は大いに発達しましたが、経度測定の発見には至りませんでした。

木工職人ハリソンの挑戦

ジョン・ハリソン
ジョン・ハリソン

イギリス、ヨークシャー出身の一介の大工職人ジョン・ハリソンは、政府の経度委員会に掛け合い、研究費の名目で賞金の前払いを受け取って、30年間近くに渡って、H1、H2、H3、H4という航海用時計の製作に没頭して、1761年に最高の作品H4を完成します。
H4には、温度変化時に鋼と真鍮のバイメタルの部品がてんぷのひげぜんまいの長さを自動で調整できる機構がある点が画期的でした。

ジョン・ハリソン

H4用てんぷバイメタ補正機構
H4用てんぷバイメタ補正機構

航海テストの結果、一日3秒未満という厳しい基準をはるかに上回る結果を出し、最終的にハリソンは懸賞金を無事獲得しますが、彼の設計は、製作するには技術的に困難が多すぎて、その後の量産には向いていませんでした。

H1
H1
H2
H2
H3
H3
H4
H4

ピエール・ル・ロワによるマリンクロノメーターの発明

バイメタル切りてんぷ
バイメタル切りてんぷ

一方で、フランスの時計師ピエール・ル・ロワは、1748年に、暑さ寒さの大きな温度変化でも、がんぎ車がてんぷに与える衝撃を抑える機構や、動力ぜんまいのトルクを一定に保つフューゼの工夫がある、画期的なデテント脱進機を考案します。ただし、正確なクロノメーターの製造には手間取り、装置「モントル・マリーヌ」が完成したのは1764年頃です。これには、てんぷの温度補正を自動的に行う水銀補正てんぷもあり、その後、ハリソンのてんぷバイメタル補正機構にヒントを得て、画期的なバイメタルの切りてんぷも発明します。

しかしながら、イギリスと違って、フランス政府が支援をしなかったことで、開発費も底を尽き、20年に渡るこの方面の研究からその後離れてしまったことは、フランスにとって大変残念なことでした。

マリンクロノメーターの改良と普及

ジョン・アーノルド
ジョン・アーノルド

当時としては最先端機構の、ル・ロワが開発したデテント脱進機を持つマリンクロノメーターの技術を応用して、安価で大量に供給できるように広めたのは、イギリス人のジョン・アーノルドとトーマス・アーンショウでした。

ル・ロワのデテント脱進機を改良して、ホゾ(ピボット)の替りに板バネの弾力でがんぎ車の歯を正確に進めるスプリングデテント方式を採用したことで、精度や品質もより安定し、二人で約千個の安いコストのマリンクロノメーターを製造しました。

この製造によって、世界の海の覇権争いは、イギリスが明らかに有利になっていきます。
いわば、ハリソンは、既存の技術の応用を最高の名人芸で作ったのに対し、ル・ロワは、デテント脱進機や補正切りてんぷなど、近代クロノメーターの独創的ながら本質的な機構を発明したのですが、その宿敵国の技術を応用して、覇権を握るところにイギリスのしたたかさがありました。
既に、1860年当時、200隻以上配備していた英国海軍には、800個のクロノメーターが保有されていたと言われています。19世紀に大海を自由に航海できるようになったイギリスは、7つの海を支配し、産業革命によって世界の工場と呼ばれる絶頂期を迎えますが、これにはクロノメーターの開発と製造が大きな役割を果たしたのでした

世界共通の経度

尚、クロノメーターは、まずは軍艦に普及した後、一般の航海船、漁船に普及していきます。保守的な船乗り達にも受け入れられて、世界各国が、世界共通の経度として、経度0度をグリニッジ天文台を通る線と決めたのは、その後1884年のことでした。

参考文献

「時計のはなし」平井澄夫 朝日新聞出版
「時計の社会史」角山 栄 中公新書
「時計」    山口隆二 岩波新書
「時計の話」  上野益男 早川書房
「経度への挑戦」デーヴァ・ソベル 翔泳社

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