16世紀の時計工業の中心地フランス、ドイツ

ニュルンベルクの卵
ニュルンベルクの卵

16世紀になると、南ドイツのニュルンベルクとアウグスブルク、そしてフランスのパリとブロアに、ヨーロッパ大陸の交通の要地としてあらゆるモノや情報が集まります。とりわけ珍しい時計が商品価値を持つことで需要が生まれて、時計職人が集まって時計工業がヨーロッパで初めて成立します。
いずれも錠前などの鍛冶や金細工、装飾加工などでも栄えた町で、時計工のギルドが結成されました。
鍛冶工、錠前工、宝石工などもそれなりの職業的知識を必要としましたが、特に時計工は高度で精密な計算を必要としたために、当時では最高の知能集団と言われていました。
また、いずれも、ルター、カルヴァンの宗教改革の革新的な地域であり、プロテスタントでは職業を天職とみなして仕事に励むことが肯定されていましたので、益々時計工業は繁栄していきます。

宗教弾圧によるフランス、ドイツの衰退

ユグノー戦争 聖バルテルミの虐殺
ユグノー戦争 聖バルテルミの虐殺

宗教改革運動は当時は反体制運動ですから、当然体制側から宗教的弾圧や迫害を受けました。とりわけ、フランスでは弾圧が激しく、ユグノーといわれるカルヴァン派の新教徒と体制派が争った1562~1598年の長きにわたる宗教闘争「ユグノー戦争」がありました。
ユグノーへの弾圧・国外追放によって、知的水準の高い技術を持ったフランスのユグノーは、カルヴァン派の本拠地スイスのジュネーブ、ベルンやフランスとの国境を接するスイス・ジュラ山脈の渓谷の町ル・ロックル、ラ・ショード・フォン、ヌーシャテルなどに、あるいは、海を渡って、ローマ教会から分離したイギリスへと亡命します。
また、ドイツでも最後の宗教戦争と言われた三十年戦争(1618~1648年)のために、ニュルンベルクとアウグスブルクでの時計産業は長期にわたって衰退の一途を辿ります。
この宗教弾圧・亡命によって、17世紀の前半から中頃には、時計工業の中心がドイツ、フランスからイギリスへと、代わっていきます。

スイスの時計工業の発祥

ジュネーブ近郊はもともと、彫金やエナメル細工など豪華で華美な宝飾細工が中心の町で、すぐれた美意識と卓越した技術を持ったスイスの職人たちは、16世紀末までは時計のような実用品にまで手を出す必要がありませんでした。
また、16世紀末にスイスに渡ったカルヴァン派ユグノーの時計職人によって、スイスに時計産業が興る素地はありましたが、彼らはローマ教会の堕落批判をし、信仰の質実剛健を尊しとしていたために、宝飾品や宝飾時計の製造を拒否します。当時のスイスには、宝飾時計以外の一般時計の需要は殆どなかったために、彼らユグノーの時計職人に、仕事は殆どありませんでした。このことから、スイスの時計工業が主要な産業になるのは、17世紀の終わりの事でした。

18世紀のスイス時計伝統の担い手

アブラアン・ルイ・ブレゲ
アブラアン・ルイ・ブレゲ

1735年には、世界で最も古いブランドといわれているブランパンの開祖ジャン・ジャック・ブランパンが、工房を開き、続いて1738年には、ピエール・ジャケ・ドロー、1755年にはジャン・マルク・ヴァシュロンが、工房を開設します。
また、ヌーシャテルに生まれたアブラアン・ルイ・ブレゲは、1775年にパリに時計店を開き、時計の歴史を200年早めたといわれる数々の新機構や意匠を生み出していきます。

アブラアン・ルイ・ブレゲ

スイス時計産業の形態と大衆化への対応

18世紀のスイスの時計産業の形態は、資本家の指揮のもとに、時計手工業者を時計部品ごとに組織したエタブリスゥールと呼ばれる家内工業的工場の集まりで、この分業体制で造られた部品を、組立業者が品質をチェックして組立て完成品にするというものでした。
19世紀になると、自国の市場の小さいスイスは、イギリスや欧州大陸全体の大衆消費者のニーズを研究し、安価で正確な時計でありながら、ポケット・ウオッチ用に薄型化などの改良を加えます。また、生産方式にも機械生産方式を取り入れることで、特にイギリスへの輸出を増やし、めざましい発展を遂げます。
ジュラ渓谷地帯の兼業農家の副業として当時西欧では最低の賃金で営まれていたので、コストが抑えられていたのです。

世界博覧会での敗北による生産方法の変革

フィラデルフィア万国博覧会
フィラデルフィア万国博覧会

19世紀の中頃には、スイスは世界一の時計王国になりますが、1873年のウィーン、1876年のフィラデルフィアでの世界博覧会で、スイスは、自動機械を用いて大量生産するウォルサムなど新興のアメリカ時計産業との競争に敗れて、アメリカ市場を失います。
これがきっかけで、スイス時計産業は、部品の標準化による生産方法のアメリカ的体制の構築と、時計産業の再組織を目指すようになります。いわゆる一貫流れ作業による近代的時計工場マニュファクチュールで、主として今日でも残っている有名なブランドが、この生産方式を採用していくのです。
一方、18世紀には世界一の時計工業の地位を占めたイギリスの時計産業は、この頃になると旧態依然とした生産方式で売上を落としていたにもかかわらず、抜本的な対策を取らなかったために、19世紀末を境として没落していきます。

イギリス時計産業と産業革命

参考文献

「時計のはなし」平井澄夫 朝日新聞出版
「時計の社会史」角山 栄 中公新書
「時計」    山口隆二 岩波新書
「時計の話」  上野益男 早川書房

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