天才時計師ブレゲの誕生
アブラアン・ルイ・ブレゲは、1747年スイスのヌーシャテルで生まれた時計職人で、パーペチュアルカレンダー、トゥールビヨンなど様々な革新的技術を発明し、時計の歴史を200年早め、「時計界のレオナルド・ダ・ヴィンチ」とも形容された天才時計師です。
ブレゲは、宗教改革以前からヌーシャテル地方に先祖を持つ名門の家系、ジョナ・ルイ・ブレゲの長男として生まれました。11歳の時、父親が亡くなり、母親の再婚相手が時計師だったことがきっかけで、14歳で学校を中退して地元レ・ヴェリエールの時計師の元に弟子入りして時計職人になるための修行を始めます。1年後にはフランスのヴェルサイユに移り時計職人として研鑽を積む一方で、頻繁に交流していた博識なマリー神父より、物理学、光学、天文学、機械工学の素養を授かり、これらの学問が生涯を通して、ブレゲの天才的な時計作りの大きな糧になりました。
ブレゲブランドの確立と成功
ブレゲは1775年28歳で、パリのセーヌ河畔のシテ島のケ・ド・ロルロージュ(時計河岸)に初めて自身の工房を構え、時計ブランド“ブレゲ”を創業します。また、この年パリ、ブルジョワ界に属する家柄の娘セシル・マリー・リュイリエと結婚します。翌年最初の子、アントワーヌ・ルイが生まれますが、幸せもつかぬま、二番目、三番目の子を病死でなくし、1780年には最愛の妻セシルも28歳の若さで世を去り、ブレゲは深い悲しみと苦痛にさいなまれ、二度と結婚はしませんでした。この次々に襲ってくる身内の不幸の間でもこれをバネにして、時計師として栄光の第一歩を記す発明をします。それが、長い間研究を重ねてきた「ペルペチュエル」ウオッチの開発です。
その後は、次々と技術面、そして美観的な観点、両面での革新的な時計の発明に着手して、ルイ16世やマリー・アントワネットを始めとするヨーロッパの多くの王侯貴族やエリート達の賞賛を浴び続けていきます。高度な時計技術ばかりでなく最新の科学に精通していたブレゲは、その豊かな才能を発揮して時計史上欠かす事の出来ない偉大な時計師の一人になりました。その多岐に渡る革新的な時計づくりはその多くが現代の時計の機構やデザインにも引き継がれています。その数々の遺産を見て行きましょう。
現代に息づく天才ブレゲの数々の遺産
1780年 ペルペチュエル(「オートマティック」と言われる自動巻き時計)
信頼性を備える自動巻き時計を世界で初めて実現しました。懐中時計の使用者が歩いたり、乗り物に乗ったりしている間に、ムーブメントに取り付けられた分銅が上下に振動することで、ぜんまいが自動的に巻上げられ、これにより巻上げが不要になり、時計が永久的(ペルペチュエル)に動き続けると考えたもので、1780年に完成、オルレアン公爵に最初に販売されました。同時にこの時計は、ゼンマイの巻上量を文字盤上に表示する「パワーリザーブ・インジケーター」、そしてスモールセコンドが最初に考案されていました。
※ここでは、ブレゲがこの自動巻き機構を最初に作った際に命名した名前「モントル・ペルペチュエル(仏語で永久時計)」にちなんで、「パーペチュアル」ではなく、「ペルペチュエル」と表記しました。
1783年 ミニッツ・リピーター用ゴング
夜の暗がりでも、時刻を1時間、15分、1分単位で細分化して知らせる機構が「ミニッツ・リピーター」で、ブレゲはそれまでリピーターに用いられていたトック方式(ハンマーがケースを直接叩く)に代わって、スティール製のワイヤ状のゴングをムーブメントの外周に沿って配置するという画期的な方式を1783年に発明しました。このゴング方式は、リピーターウオッチを薄く作り、かつ澄んだ響きを作りだす事が出来たので、当時の時計師の大半がその後採用するようになりました。
1783年 ブレゲ針・ブレゲ数字
ブレゲの独創性の探求は、精巧なメカニズムばかりでなく、美観的な様々なデザインにも発揮されました。
ブレゲ針とブレゲ数字
先端が鋭く尖り、それに丸いモチーフが連続する独特の形や、スティールを焼き上げてブルーに発色させた美しい色彩が印象的な「ブレゲ針」は1783年に考案されます。また、やや右に傾いた独特の書体を特徴とするアラビア数字で白いエナメル文字盤によく用いられました。どちらも今では、時計の一般用語になっています。
ギヨシェ模様
手動の旋盤で規則正しい模様を文字盤などに彫刻する「ギヨシェ」もブレゲを代表するデザイン手法として1786年頃から幅広く使われています。装飾的な意味合いだけでなく、金属文字盤の反射を抑える役割を果たしていますが、これも今日の時計に広く用いられています。
1790年 パラシュート機構(耐衝撃吸収機構)
時計を落としたり、外部からの強い衝撃が加わると、ムーブメントの中で振り子の役割を果たすテンプの軸(天芯)が致命的な損傷を受けますが、それを防ぐために、テンプの耐衝撃を吸収する機構を1790年に発明し、「パラシュート」と名付けました。テンプの軸の先端を円錐にカットし、この形に合った受け皿状の部品でそれを支えるようにして、さらにそれらをバネを配した台に載せたもので、現代のインカブロック機構の元祖となっています。
1792年以降のペルペチュエルウオッチには全てこの機構が採用されるようになり、全ての他のモデルにも順次採用されて行くようになります。
1795年 パーペチュアルカレンダー
日付、曜日、12か月の名称を表示し、なおかつこれらのカレンダー表示が閏年の周期も計算に入れながら、特殊なカムを利用して自動的に修正される機構、パーペチュアルカレンダーを1795年に開発します。この時期のブレゲは、フランス革命の動乱を逃れてスイスで逃避生活を送っていました。
1801年 トゥールビヨン
ブレゲが1801年に特許を取得したフランス語で「渦巻き」を意味する「トゥールビヨン」脱進機の発明は、ブレゲを代表する複雑時計にして、時計技術の最高峰に位置するものです。
時計は使われるたびに変わる様々な姿勢の違いによって、重力の影響を受けて進んだり遅れたりしますが、「トゥールビヨン」脱進機とは、その影響を可能な限り少なくするために、正確なリズムを作り出し歯車を一定の速度で回転させる調速脱進機(テンプと脱進機)を「ケージ(キャリッジ)」と呼ばれる籠に収め、このケージを回転させる事によって姿勢差の偏りから生じる進み遅れの誤差をなくすように工夫した機構です。
1810年 クイーン・オブ・ネイプルズ
皇帝ナポレオン・ポナパルドの妹でナポリ王妃のカロリーヌ・ミュラより特別な注文を受けて作ったのが、世界初の腕時計とも言われるクイーン・オブ・ネイプルズ(ナポリの女王)です。これは、細長いケースにリピーター機能付きのムーブメントが収められ、髪とゴールドの細線を縒り合わせたブレスレットが組み合わされていたそうです。
1815年 マリン・クロノメーター
ブレゲは、1815年に二重香箱方式による高精度のマリン・クロノメーターを開発し、同年フランス王国の海軍省御用達時計師(オルロジェ・ドゥ・ラ・マリーン)の称号を預かりました。18~19世紀の時計師にとって、船の経度を正確に把握する「マリン・クロノメーター」の製造者として認められることは最高の栄誉でした。
1820年 スプリットセコンド・クロノグラフ
スプリットセコンド・クロノグラフとは、計測用の秒針を2本備えるクロノグラフで、クロノグラフ針と同時に重なってスタートするスプリットセコンド針は、計測の途中に独立して停止することができ、その後で進行中のクロノグラフ針に瞬時に追いつかせることも可能です。この機能を利用すれば、中間タイム(スプリットタイム)や二つの対象の経過時間を計る事が出来ます。これが現代のスプリットセコンド・クロノグラフの起源です。
1827年 超複雑時計「マリー・アントワネット」
1783年にフランス王妃マリー・アントワネットから依頼を受けて、ブレゲが当時開発していた最新鋭のあらゆる技術を網羅した超複雑時計「マリー・アントワネット」の開発に着手します。あまりにも精巧な技術を要したために、ブレゲの死後も弟子達がその仕事を受け継ぎ、完成は受注後44年、王妃の死から34年が経過した1827年でした。この時計には、平均太陽時と現実の天体の運行に基づく真太陽時との時間の差である「均時差(イクエーション・オブ・タイム)」を表示する機能も搭載されていました。
偉大な時計師としての名声
以上の様に、ブレゲは今日まで続く多くの独創的な技術や意匠を発明しました。彼は、偉大な技術者にして、謙虚で誠実、かつ陽気な性格であったために、あらゆる社会階層の重要人物と尊敬や博愛の絆で結ばれていたと云われています。また、ブレゲはヨーロッパ中から多数の優秀な時計職人を呼び寄せ、自らの技術やノウハウ、研究の方向性を出し惜しみせずに伝え養成し、弟子としての許可を与えました。一方で、名門の血統と堅固な企業を築きあげ、それが時計会社ブレゲとして受け継がれ、1775年の創業以来きわめて高い名声を持ち続けています。
参考文献:ブレゲ天才時計師の生涯と遺産 エマニュエル・ブレゲ著 アラン・ド・グルキュフ刊
現代に息づく天才ブレゲの遺産 スウォッチグループジャパン(株)